非理性的気分に感染しないために2005年10月03日 21時23分45秒

<日本文化をぶっ壊す>破壊的「改革」者集団(=杉村某をはじめとする「これから勉強します」という愚劣な選良共・・・と書いているこちらも日本語を破壊する愚劣さに伝染していますが)について、相も変わらず紙面と電波を割いて、権力のための太鼓持ち・提灯持ちを行う、日本のマスメディア主流の惨状に、どうしても休日には目がいってしまい、せっかく天気が良かったのに、不愉快きわまりなく、リフレッシュも十分にできずに、月曜日をむかえて、職場に行けば、そこでも結局は日本社会の現実がヒシヒシと「改革」の美名のもとに押し寄せ、非常にむかむかする週の開始となってしまいました。

まあ、それにしても、田原某とか古館某とか、中高校生のディベート司会者に劣るともけっして優らない、恣意的な司会?を行う人々を跋扈させる、マスメディアについて愚痴的文句を言っていても始まらないし、そのメディアがまき散らす非理性的精神に感染してしまって、ネットウヨク君たちの水準に落ちてしまったらお仕舞いなのですが、それにしても、この日本社会のあらゆるところから、批判精神・理性的な議論の構えというものが雲散霧消し、本当にファシズムが立ち上がる時の空気とはこういうものなのではないのかとも思ってしまう昨今であることは確かです。

そうした中で、とくらブログさんで知ったブログ http://d.hatena.ne.jp/MeMoMa/ で、田原の無知についての記事がありました。 メディアのバカさ加減につき合うことはなく、その非理性的な迎合精神に絶望することもなく、下劣な情緒主義の下劣さを端的に指摘していくことが大事なのです。

と、自分自身の周囲の絶望的とも思える状況に対してもですが、けっして絶望することなく、自分なりに精一杯の道理と理性を追求して対していくしかないな、と確認したした次第です。

単なる決意表明に終わってますね。

STOP THE KOIZUMI サイトのバナーを掲げました2005年10月05日 21時24分19秒

ブログ「世に倦む日日」が呼びかけた STOP THE KOIZUMI http://critic2.exblog.jp/1260870#1260870_1 のサイトが始まったようですので、私もバナーを掲げました。

「世に倦む日日」の影響力の大きさもあるので、広がることを願っております。

厳密にいえば、おそらくthessalonikeさんの意見とは異なる部分もかなりあるかと思うのですが、このような「運動」が、既成の政治勢力に代わる、個人による新たな動きを棹さすことになると考えるからです。

「戦争のできる国」2005年10月06日 21時16分02秒

私が『「護憲」か「平和主義的改憲」か』という記事の中で、「「9条改憲」=「戦争のできる国にすること」という批判は、戦前に郷愁を感じるナショナリズムの立場からの改憲論や、米戦略に従属していくという「集団的自衛権」推進の改憲論に対しては、有効な批判であるとは思います。しかし、防衛力の制約を含む自衛権行使の明確化や集団安全保障体制への参加という角度からの改憲論もいっしょくたにして、改憲=悪という立場に還元する視点は、議論を政治主義的に歪めるし、多くの国民からも共感を得ないでしょう。」と書いたことに対して、モジモジさんから

「防衛力の制約を含む自衛権行使の明確化や集団安全保障体 制への参加という角度からの改憲論」というのは、既に理想的 な国際社会があって、自律的に考え、理性的に選択できる状況 であるという前提が必要です。国際社会は現状そうなってはい ないし、また既にしてアメリカのイラク侵略に巻き込まれている わけで、そのような状況で集団安全保障は「戦争のできる国に する」以上のことを意味しないと批判するのは的を射ていると思 います。

とのコメントをいただいていました。とりあえず、次のように私は考えているのですが・・・・。

現日本国憲法自体が、「現に理想的な国際社会があ」るということを前提しているといえると思います。マッカーサーノートが<日本の安全を世界の崇高な理想に委ねる>との主旨で非武装を指示したわけですが、その「理想」が前文にも受けつがれています。また、国際連合という集団安全保障機構の設立も、同様の理念に基づくといえるでしょう。

ただし、実際には実現していない理想的な国際社会(の追求)を憲法が掲げることは、意味がないから同じだというつもりはありません。むしろ、現実社会を理想に導く規範的な意義を憲法はもっているからです。

さて、日本国憲法制定時の理想は引き継がれるべきであるが、現実に侵略や不正義の武力行使の危険がある以上、それに対応する安全保障を国際社会は必要としており、集団安全保障体制に日本が参画することをより具体的に明確にすることが必要だという意見もあるわけです。

もちろん、米英のイラク侵略を国際社会が止められず、日本が追随しているという現実がある中で、理想や規範が有効なのかどうかは検討されるべきでしょう。国際連合がイラク戦争を制裁できないという現実を、どの方向で評価するのかで意見がわかれることもよくわかります。

しかし、集団安全保障体制を必要とし、日本がコミットすべきであるという意見そのものの原理的評価を抜きに、現実論だけをぶつけるあり方は、説得力はあまりないように私には思えます。

いくつかのブログを読んで2005年10月09日 00時07分53秒

左派(左翼)の中で一番大きい党派、日本共産党について、このブログでこれまでも言及することがありました。その指導部=中央委員会について、何も期待していないという主旨のことをこのブログに書いたことがあります。

総選挙の「総括」をめぐって、いくつかのブログでは社共共闘(社民党と共産党との共闘)について議論されていました。新自由主義や国家主義による「改革」や改憲の動きに対抗していくためには、共産党についても、何かを言わざるをえなくなるのだと思います。私自身も庶民の一人として、そうしているつもりです。

さて、日本共産党が民主集中制等に象徴されるスターリン主義=左翼全体主義を完全に克服できないかぎりは、おそらく一貫した民主主義的政治勢力として発展はしないでしょう。

また、法の支配や立憲主義といった「自由民主主義」の理念を否定したマルクス・レーニン主義=科学的社会主義を(改竄して薄めるのではなく)理論的に克服=自己批判することが必要でしょう。さらに市場を介さない社会的労働の直接的な結合=計画経済という社会主義理念を揚棄し市場経済を原理的に是認することも求められるでしょう。

ともかく、何と言ってもスターリン主義を克服することなしに、内的には常に「正しい中央の方針」が官僚機構を経て、現場でこつこつと活動する人々へと降りてくる疎外状況を完全に払拭できないだろうし、対外的には党の「正しい」路線を「大衆団体」に押し付け、またたとえば新左翼の人々を「ニセ左翼」と侮蔑し時には暴力的に襲いかかった所業の淵源を克服できないでしょう(その被害の側にいた草加耕助さんがブログ(旗旗)に書かれています)

何だか長々しくなってしまいましたが、民主党や社民党の政治家は「うちの党もこんな問題があってダメなんだよね」と外部の人に普通に語るのに、共産党の政治家はそうでない。何だかおかしな体質だなという庶民常識が大切だと思います。くどくど言うと、それはスターリン主義=左翼全体主義の思想が根底にあって歴史的に形成された「文化」なのですが・・・まあ、それは置いておいて・・・・、共産党の中にも「それはおかしい」と外部に向かって言える人が増えてきたのでしょうか。ブログ「カッシーニでの昼食」でともえさんは、一昔前なら確実に党内で処分されたと思われるのですが、ストップ・ザ・コイズミのバナーを掲げて「左翼・右翼を超えて」とまで言われています。

ぜひ、ともえさんのような共産党員の方に、頑張っていただきたいです。(ご迷惑かもしれませんが)

共産党が内外で多様な意見を交換し議論できる組織になっていけば、その政策や理念への賛否はともかく、日本の政治にとってプラスであることは間違いありません。

現状を左派全体の弱体化の中で、組織規律が緩んでいるだけとの見方もあるかもしれませんが、70年代初頭に粛清・弾圧された「新日和見主義」派の残存した人々やその下の世代の人々が経験を生かして面従腹背で少しずつ空気を変えているのかも、というのは希望的観測でしょうか。

それから別のブログなのですが、共産党の影響力が強い大学について、労働者Lさんが書かれていることも、いろいろな所で見聞きしますが、今後の「観測結果」を期待しております。

[追記]自分のことを少し書きますと、私は、小学生高学年の頃より『赤旗』を読み始め(今はほとんど読みませんが)、18歳より10年ちょっとこの党派に関わりました。一時期までは不破哲三と上田耕一郎の著作は全部!(「禁書」になった『戦後革命論争史』を除く)読みました。『人民的議会主義』や『先進国革命の理論』を線を引いて読んだ時もあったのです。でも「活動」ではいずり回りながら読んだ、『レーニン10巻選集』とか『マルクス=エンゲルス8巻選集』(今でも売られているのでしょうか)の方が格段におもしろかったのは、当然ですが・・・(と懐古趣味に走るのもバカな元左翼の悪癖でしょうか)・・・。  というわけで、渡辺恒雄や西部邁や高野孟が、自らが関わった党派について言う程ではない?と信じたいのですが、私もバイアスがかかっているのかもしれないとは思っています。

桁違いの犠牲者2005年10月11日 22時54分06秒

「パキスタン大地震」の死者は、当初、1,000人とか2,000人とか言われていたのが、4万人を越えると報道されはじめました。そして、250万人の避難所が必要とのことです。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051011-00000015-yom-int

カトリーナの時と同じように、被害の大きさは社会構造を反映しているでしょう。根深い対立関係にある、パキスタンとインドが協力して対処し、武装組織も休戦を宣言し始めているようなのは、唯一の救いでしょうか。

日本の政府がすぐに緊急援助隊を派遣したのは、よいことですが、数十人規模ではなくて、もっと大部隊を送り出すことは難しいのでしょうか。まだ生き埋めになっている人が多くいるといいます。もどかしい限りです。

STOP THE KOIZUMI をめぐって[メモ]2005年10月12日 22時00分04秒

“STOP KOIZUMI THE DECTATOR”とか。まぁ、冠詞に弱い日 本人にありがちなミスだけど外人さんがこのバナーを見て失笑 してるのが目に浮かぶ。( ´,_ゝ`)

前の記事に上のような一文を含むコメントいただいたので、以下のコメントを書いてしまいました。

世に倦む日日さんのサイトで説明されているように、昔のストッ プ・ザ・サトウから着想を得ていて、さんざんその時も・・・「こ」 のようなことを言う人がいたけれど、結果的には美濃部氏は 圧倒的支持を得たわけです。アルファベットを使った日本語な んですよ。漢語を摂取した古来から日本語はそのように柔軟性 (いい加減性)をもっていたので、きわめて伝統的なんですね。 エヘヘ(失笑)。

ちょっと極論ですが、言葉は重要だけれども、そこに込められた言葉の本質的な意味やメッセージに対して、議論しようとすることが大切だと思います。

thessalonikeさんが「改革」をどうするのか - 政治言語としての「改革」の揚棄で書かれていることも、「改革」という言葉をめぐって大切なことを提起されています。

「改革」がシンボル操作として機能しているレベルと、現社会の何をどう「改革」しようとしているのかという本質論のレベルとの関連という問題として、私は受けとめました。

thessalonikeさんは『資本論』と対比して、「DAS小泉構造改革」(論)が書かれなければならないとも言われています。『資本論』の著者は、資本が生産過程を包摂し貨幣が資本に転化する結果、資本とは資本・賃労働関係という社会関係であるということを剔抉しました。まさに目の前の現象形態では「お金が増える」(自己増殖する価値)が、そのカテゴリーの背後に何を秘めて成立しているかを解き明かしたわけです。 (それだけでは不十分なことも21世紀の我々は知っているのだと思いますが、それは置いて)

ここ何年もメディアと支配層が唱道していきた「改革」は、常に古い支配体制のスクラップする部分を標的ににして、「国民のための改革」を偽装するものでした。それは、「維新」「革命」という言葉をめぐってもそうだったように、「改革」という言葉をめぐる争奪戦を必然的に引き起こします。

そこで、問われているのは何が「国民のための改革」なのかというクリアーな基準を提起できるかです。たとえば今は説得力が限りなく低減したけれど、「革命とは社会構成体移行である」というような。

そのような意味で、結局、「構造改革」等の内実が何かを提示できるかどうか、そのための基準をきちんともてるかどうかでしょう。民主党前原連や「リベラル」っぽいメディアがすぐに「改革」競争にはまるのは、そのような理論的視座をもっていないからです。(それは別に難しいことではないはずなのですが)。

そして、「構造改革とは新自由主義的改革・国家主義的改革である」という視点の明確化は、ではどのような改革が必要なのかという点の明確化に直結するでしょう。「我々のめざす方向(改革)はこのような社会に向かうことだ」という内容をはっきりさせるということです。そのような意味での「改革」論は、グローバリゼーションとの関係から「うちの街のシャッターが降りた商店街の現状」との関係まで、もっともっと論じられなければならないでしょう。また、それをあらゆる表現形態で打ち出していく必要があるでしょう。

たとえば、STOP THE KOIZUMIならぬSTOP BUSHの表現活動では、このようなプロジェクトとかこういうサイト があって、すごいと思いました。

アナロジーの域を超えて考えると、「改革」とは、「資本」のように学的解剖をしなければならないような、自己運動する範疇とはいえないのだから、我々庶民でも「B層」の喜びを甘受するのでなければ、十分にその正体暴露の情報戦に参加可能でしょう。そして、「社会民主主義」なり「連帯と公共性」なりという方向性をもった視座を共有できるかどうかが求められているのではないでしょうか。

パキスタン救援街頭募金をする自民党新人議員たち!2005年10月13日 22時13分21秒

パキスタン地震の被災者救援のために募金活動を行う。 よいことですね。しかし、今日の夕方、地上波局のニュースをたまたま外出先でちらっと見たら、自民党の新人議員50人が有楽町かどこか(マリオンの前あたり?)で、雁首そろえて募金箱をもって街頭募金を「訴えている」絵をみてしまいました。

幹事長の武部氏や阿倍晋三氏までが出てきてマイクを握り、おまけに文化破壊者=杉村太蔵クンが若者と携帯で記念撮影におさまったり、「パキスタンのみなさんがんばってください」みたいな稚拙な演説をしているところなどが写されていました。サンケイwebにものっています。 http://www.sankei.co.jp/news/051013/sei058.htm

それを見て、自民党は保守政党ともいえない気持ちの悪い集団になったな、と実感しました。

国会議員がまず考えるべきなのは、始動が遅れている政府としての救援活動についてであり、国際援助のあり方であり、対災害の脆弱性をもたらしているパキスタンの貧困や社会構造の問題でしょう。それが、この国会議員連中は、そのへんのアイドルタレントが行うシンボル的な行為と同じようなことを嬉々としてやって、無内容に「お願いしマース」とか叫んで、メディアと通行人の注目を集めて、政治的パフォーマンスにもならない水準で満足しているのです。

これまで日本の保守政治家がこういうことをやってきたでしょうか。この連中の頭の程度が低いというだけではなく、議員としての役割を担うということ自体が軽んじられ、社会を支えてきた行動規範や文化を根底から破壊しているように思います。

中身がないこと空疎なことが、何か意味があり価値があるとされてしまう今の日本の現状を象徴する、アホバカ共の行為。それを繰り返し見せられて、こちらの方が恥ずかしくなるのが、この「小泉チルドレン」(この言葉自体を使うことが恥ずかしいけれど)のやっていることです。

P.S. いや、「募金活動」をした時以外は、国会議員としてパキスタン地震に関わる諸問題を勉強し議論してたということでしたら、杉村クン、連絡ください。