「戦争のできる国」 ― 2005年10月06日 21時16分02秒
私が『「護憲」か「平和主義的改憲」か』という記事の中で、「「9条改憲」=「戦争のできる国にすること」という批判は、戦前に郷愁を感じるナショナリズムの立場からの改憲論や、米戦略に従属していくという「集団的自衛権」推進の改憲論に対しては、有効な批判であるとは思います。しかし、防衛力の制約を含む自衛権行使の明確化や集団安全保障体制への参加という角度からの改憲論もいっしょくたにして、改憲=悪という立場に還元する視点は、議論を政治主義的に歪めるし、多くの国民からも共感を得ないでしょう。」と書いたことに対して、モジモジさんから
「防衛力の制約を含む自衛権行使の明確化や集団安全保障体 制への参加という角度からの改憲論」というのは、既に理想的 な国際社会があって、自律的に考え、理性的に選択できる状況 であるという前提が必要です。国際社会は現状そうなってはい ないし、また既にしてアメリカのイラク侵略に巻き込まれている わけで、そのような状況で集団安全保障は「戦争のできる国に する」以上のことを意味しないと批判するのは的を射ていると思 います。
とのコメントをいただいていました。とりあえず、次のように私は考えているのですが・・・・。
現日本国憲法自体が、「現に理想的な国際社会があ」るということを前提しているといえると思います。マッカーサーノートが<日本の安全を世界の崇高な理想に委ねる>との主旨で非武装を指示したわけですが、その「理想」が前文にも受けつがれています。また、国際連合という集団安全保障機構の設立も、同様の理念に基づくといえるでしょう。
ただし、実際には実現していない理想的な国際社会(の追求)を憲法が掲げることは、意味がないから同じだというつもりはありません。むしろ、現実社会を理想に導く規範的な意義を憲法はもっているからです。
さて、日本国憲法制定時の理想は引き継がれるべきであるが、現実に侵略や不正義の武力行使の危険がある以上、それに対応する安全保障を国際社会は必要としており、集団安全保障体制に日本が参画することをより具体的に明確にすることが必要だという意見もあるわけです。
もちろん、米英のイラク侵略を国際社会が止められず、日本が追随しているという現実がある中で、理想や規範が有効なのかどうかは検討されるべきでしょう。国際連合がイラク戦争を制裁できないという現実を、どの方向で評価するのかで意見がわかれることもよくわかります。
しかし、集団安全保障体制を必要とし、日本がコミットすべきであるという意見そのものの原理的評価を抜きに、現実論だけをぶつけるあり方は、説得力はあまりないように私には思えます。
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