イラク占領も郵政民営化も既成事実ではない2005年10月15日 18時39分38秒

イラクの国民投票が実施されています。きょうの『朝日』の記事によると

国民投票の結果について、米ブッシュ政権は(1)スンニ派を含 む圧倒的多数で承認(2)スンニ派の反対を押し切って承認(3) スンニ派の反対で否決――のシナリオを想定する。

そして、話のネタは「ブッシュ政権に近い保守系シンクタンク「アメリカン・エンタープライズ公共政策研究所」(AEI)のマイケル・ルービン研究員」なのですが、(2)よりは(3)つまり否決が望ましいという。なぜかは、本当にイヤになる政治的な理由なのだけれど、直接記事をご覧ください。http://www.asahi.com/international/update/1014/012.html

さて、イラク戦争についてブッシュが最近言っていることについて、カーター政権の高官だったブレジンスキーが、「デマゴーグ的レトリック」だと批判しています。アメリカの国益を追求するなら、この馬鹿げた戦争・占領をやめるのが最善であるというのは、ネオコンや宗教右翼の政治的イデオロギーに毒されずに合理的に考えられる人ならすぐわかることなんですね。

ブレジンスキーの文章の要旨は、日刊ベリタの江口惇氏の記事に紹介されています。

ところで、原文の題はLos Angeles Timesでは"American debacle"なのですが、ヘラルド朝日などに載った、おそらくオリジナルのの題は"GEORGE BUSH'S SUICIDAL STATECRAFT A Response to the President's Renewed Demagoguery"となっています。つまり「ジョージ・ブッシュの自殺的政策展開について 大統領の新たなデマゴギーに答える」という感じでしょうか。ロサンゼルス・タイムズは「アメリカの大失敗」の方が穏当と考えたのでしょうか。

まあ、それはともかく、小泉純一郎はフセインが捕まる前に国会で「フセインが見つかってないように、大量破壊兵器も見つかってない。だからってフセイン大統領は存在しなかったって言うんですか。私は必ず大量破壊兵器が見つかると思う」と叫んでいたけれど、あの彼の国会での発言についてどう責任をとるのかなんて、もうまったく考えないのでしょうね。(彼の辞書に「責任」の文字はあるかどうか疑わしいですが)

ブレジンスキーは、アメリカが撤退するのが早ければ早いほど、イラクのシーア、スンニー、クルドの合意は早まるだろうということを言っていますが、米軍(そして自衛隊)の撤退こそ、国際法に反して始まったこの戦争と占領の問題を打開する唯一の道でしょう。

ところで、郵政民営化法が国会を通りましたが、あの現・元自民党の「造反」議員たちの変節・転向ぶりについては本当にあきれます。

政治家として継続して活動するためには、敗北を受け入れて進む必要もある。それが政治ないし政治闘争というものだ、という見方があることも理解はできます。しかし、私は徹底的な敗北の局面でこそ、原理や理念を最大限に追求することによってしか次の局面を切り開けないと思います。

その意味で、「処分しないとあの選挙の意味が問われる」と言っている小泉執行部周辺の声の方が、よほどまともです。 また、別の比較では、夫婦別姓法案を推進してリベラルな面もある野田聖子より、国家主義者の平沼赳夫の方がまともということでしょう。

郵政民営化法が通ったからと言って、10年先の完全民営化までのプロセスが既成事実になったわけではありません。数年後には政権をとり、自分たちのプログラムを実施していくという決意を改めて固め、そのための行動を始めるというのがまともな政治家や党派でしょう。 (もちろん、十年一日の紋切り型の「反対」「抗議」をやっている官僚的な人々も変節・転向議員を笑うことはできません)

小泉首相の靖国神社訪問2005年10月17日 20時38分30秒

事前の噂通り(観測気球をあげていたのでしょうが)、小泉首相は靖国神社を訪問したということです。

それに対して、中国・韓国政府が抗議をし、一部の「反日ナショナリスト」が街頭で気勢を上げ、日本ではプチ・ナショナリズムに感染した若者の軽薄な「戦死者を悼むのに口出しするなんてうざい」という小泉の口まねをメディアがまきちらし・・・・、と何か予想通りの見慣れた風景がくり返されているに過ぎない、と感じてしまうことこそが恐ろしいことです。

総理大臣という公職にあるといえども、一人の人間として、彼が公務を離れて、どのようなおタッキーな趣味を愛好しようとも、どのような女性とつきあい、どのような嗜好に耽溺しようとも、基本的には彼のプライベートな生活であります。そのようなレベルでどのような信仰をもち、どのような神社仏閣霊廟墓地を参拝しようとも自由だということは、私も同意します。

しかし、小泉氏が自民党総裁選で公的に約束し、すべてでないにしても裁判所で「違憲」判決が出され、しかも、国家意思に基づく侵略戦争遂行の責任があると「認定」されているA級戦犯問題が超公的問題として浮上している現実の中で、今日のような(多少違憲判決を意識して方式を変えたとはいえ)参拝を彼がすることに、一片の賛意も持ち得ません。

しかも、彼は<人間として戦没者を追悼し、平和を祈念するのは人の心のあり方であり、それを批判するのは干渉だ(特に外国が批判するのは内政干渉だ)>という主旨のことを発言しています。

こういう詭弁は本当に小泉純一郎的ですなあ。

1)靖国神社が特定の宗教法人であることを無視、2)被祀者が戦没者一般ではなく帝国軍人であることを無視、3)A級戦犯=謝罪した侵略戦争の責任者が祭られていることを無視、4)行政府の最高責任者=公権力行使の意思決定者の行為が、国民の「心の問題」=精神の自由との関係で問題になっていること無視、5)中国・韓国の政府との外交関係について国家指導者として向き合う姿勢が欠如(批判や論争も含めて)、6)中国・韓国の国民感情が反日ナショナリズムに帰結する危険大である環境に対してどのように対処するのかという展望が欠如、いくらでもあげられるので、これくらいでやめましょう。ともかく、権力者が自分の「心の問題」なんてふやけたことを堂々と言えて、メディアも無批判というのがこの2005年の日本の風景なのであります。

私も前に「小泉首相は靖国神社参拝を」と書きましたが、きっと理念あるナショナリストやアジア主義者としての右翼のみなさんも、小泉氏のこの姿勢には憤っていることでしょう。

靖国参拝イメージ戦略に対抗するためには2005年10月19日 21時57分42秒

新聞社・通信社による小泉靖国参拝についての世論調査では、賛否が拮抗しているようですが、賛成が確実に増えていますね。今日の 朝日新聞によると、靖国参拝を「よかった」42%、「参拝するべきではなかった」41%だそうです。

同じ朝日だと5月の末の調査 だと、靖国神社参拝を「やめた方がよい」は49%、「続けた方がよい」は39%でした。 さらに6月の調査「やめた方がよい」52%、「続けた方がよい」36%。

今回、明らかに靖国参拝肯定が、小泉自民党への高支持率を背景に増えています。

その点をbrotherjinさんは、ブログ「◆木偶の妄言◆」で、下のように指摘されています。

それでも靖国を参拝した。なぜか?

僕はある意味「イメージ戦略」の一貫だと思っている。

小泉首相にとって、外交で毅然とした態度を取れるのが靖国

参拝(=対中韓)だけであり、靖国参拝を中止することは、小

泉首相の人気の源泉である「妥協しない」「屈しない」というイ

メージを崩しかねない。

たしかに小泉氏の「イメージ戦略」は、この間の「小泉(デマゴギー)劇場」にみられるように確実に功を奏しているといえそうです。

特に気になるのは、今日の朝日の調査だと

参拝の賛否は、男性では「よかった」38%、「参拝するべき ではなかった」46%と反対が多いが、女性では46%対 36%で賛成が上回った。

というところですね。 女性の方が、「戦争と平和」に関しては敏感なのが通例ですが、「靖国参拝」は<戦死者を追悼し平和を祈念するためだ>というイメージに塗り替えられつつあるということでしょう。 (もちろん若い世代と同様に、メディアの影響をより大きく受けているともいえるでしょうが)。

「私人か公人か」「政教分離に抵触しないか」というような重要な論点は、小泉の「二度と戦争をしない」「平和を祈る心」など美辞麗句で、より遠くに後景化されているわけです。

やはり、小泉イメージ戦略に対するためには、あの大東亜戦争の悲惨という、過去の現実からリアルな「真実」をたぐりよせるしかありません。「真実」は当然にイメージを喚起します。

たとえば、<殺人やレイプの被害者・その家族は、隣人がその凶行の実行責任者の墓に参拝することに対してどう思うでしょうか>というナレーションから始まる1分間のビデオクリップをつくって、無数のサイトでそれを流すというのはどうでしょう。

そこでは、大東亜戦争で日本軍が行った蛮行、それを実行させた東条らの責任者、犬死にさせられた日本軍一般兵士の姿、そして靖国神社どういうことを今も主張しているのか、中韓だけでなく台湾・シンガポールなど東南アジアの人々が日本軍の行為に対してどういう思いを抱いているか、切々と訴える映像。そして、「反日デモ」の一部暴走と靖国・ 遊就館に象徴される皇国肯定が、危険なナショナリズムとしては同じであり、相互の韓流・日本ブームのように、アジアの国同士が楽しくつき合っていくことが、平和を築いていくことを訴える・・・・。

既成党派や左翼っぽい市民運動ではなく、バランス感覚と表現力がある人がつくってくれませんかね?

「古典」で思うこと2005年10月22日 23時35分07秒

アッテンボローさんのブログの「共産党が古典を読まないわけ」で、「マルクス・エンゲルス・レーニンは日本共産党にとって都合の悪いことを言っている」ので、「宮本顕二、不破哲三といった共産党指導者が古典を読んで解釈した共産党の文献を通じて」学ぶだけということを書かれています。

それに対して、別のブログ三四郎日記では「【読書】古典学習のすすめ」 で不破哲三氏の『古典学習のすすめ』を引いて指摘されています。 「やはり多くの人が古典にじかにぶつかって、結論的な命題だけでなく、そこにいたる精神やその議論をつらぬいている方法をつかむ努力をしてほしい、と思います」と不破氏は言っているそうです。

不破氏が言いたいのは<科学的社会主義の原理を学ぶのは重要で、そのためには古典をなるべく学んでほしい。しかし、その原理を当時の社会状況に適用してマルクス・レーニンらが主張した命題を機械的に現代に適用するような、教条主義は、マルクスやレーニンの精神とは異なり、我々とも無縁である。科学的社会主義の原理を、現代日本の状況に関する正しい科学的社会主義的な研究に基づいて適用し発展させたのが、正しい日本共産党綱領路線である>ということでしょう。

ですから、当然に、暴力革命論(唯一論)や革命的祖国敗北主義やブルジョワ国家機構徹底粉砕論という(マルクスや)レーニンの主要命題を、修正する(科学的に現代に適用する!)共産党中央について、(より原理主義的な)新左翼の人々が「裏切り・改竄」と怒るのはもっともなことでしょう。

しかし、私が最も問題だと思うことは、「党」が正しい教義に基づいて正しい方針・政策を常に体現しているという、思考方式そのものです。これらの人々の「学習」とは常に正しい教義なり方針なりを学んでいくことです。そこには、マルクスがあるときアンケートでモットーとして答えた「すべてを疑え」という精神はみられません。

1970年代末に多元主義と前衛党をめぐって、不破氏と党員研究者の間で論争が行われたことありました。それをめぐって「学習会」が開かれましたが、そこでは、不破氏が書いた(といっても、5人の中央の研究員とか何とかに下書きを分担執筆させたと専従が誇らしげに言ってましたが)論文が絶対的に正しいと結論が決まっており、それに疑問をはさむことは許されないのです。個人的にも保養地近くの(今はあるかどうか知りませんが)学習会館いうところで、泊まり込んで「教育」を受けたことがありますが、今北朝鮮で行われているであろう「教育」「学習」と同質のものでした。

おそらく、共産党の中ではトロツキーもルクセンブルクもグラムシも(不破氏が構造改革派だったときは彼は読んだでしょうが)ほとんど読まれないし、蜜月時には絶賛された毛沢東も読まれることはないでしょう。そして、マルクス主義内の論争はもちろん、マルクスやレーニンが他の社会主義者と行った論争も、どちらが正しいかは「党」=神官が下した結論を受験勉強と同じく「学習」するだけでしょう。(共産党は公式にスターリンと生命を犠牲にして闘ったトロツキーを「名誉回復」させたのですかね?)

そもそも近代において、社会の問題を考えるときに、「正しい教義」(科学的社会主義なりマルクス・レーニン主義のような)が前提されて存在するという思考方式自体が、非常に危険でしょう。そういう思想をもった人々が国家なり人間集団なりの権力を握れば、必然的に民主主義が破壊されていくのは必至です。

その点で日本の新左翼諸党派も、共産党と大きく違うとは思えません。スターリン主義は、本来の科学的社会主義から逸脱したり、マルクス・レーニン主義を裏切ったから生まれたわけではないと思います。その点を曖昧にしていては、「左翼」の再生はないでしょう。

「古典」に話をもどすと、私的には、ローザの手紙や、グラムシの獄中書簡が好きです。でもマルクスやレーニンが「古典」なら、ウェーバーやケインズやハイエクの代表作だって、社会科学にとっては「古典」だろうと思っています。

NHK「日本のこれから 若者」を見て2005年10月23日 17時15分19秒

土曜も働かされて疲れたためか、途中少し居眠りをしてしまいましたが、「“NHKらしくない”“予定調和を排した”“本音の”討論番組として注目されている「日本の、これから」」(byNHK)の「知っていますか?若者たちのこと」を見ました。「スタジオに集まった様々な年代・立場の市民や有識者がVTRを交えながら徹底討論し、日本社会のこれからを考えていく」という番組です。

前半は、メディアが大好きな、渋屋の路上で座り込むガングロギャルやそれに顔をしかめる「大人」という図式から始まり、フリーターで生きるのは「甘い」かどうかというような、本当にNHKらしい(テレビらしい)くだらない図式の話が延々と続きましたが、我慢して見ました。

その中でも、渋谷に集まるギャルや若者たちの「サークル」が9.11に4000人近く集めて踊ったり平和も訴えたというイベントが紹介されたり、下北沢で「マンガ読み」をやっているという若い男性が現れたりと、初めて知ったこともあり、スイッチを切らないでよかったかな。

ただ、笑ったのは、スタジオにいたバカオヤジが「集会をやってそのあと、茶髪の若者たちは悔い改めたのですか?」というようなことを言って、ゲストの泉谷しげるに「くだらねーこと言うんじゃねーよ。年寄だって白髪染めつかっているだろ」云々とたしなめられていた?こと。

後半になって、やっと地方で若者が就職するのがいかに厳しいかという現実の問題がビデオで紹介され、スタジオでも放送大学教授で社会学者の宮本みち子さんが、政策的な援助がなくて若者がフリーター・ニートから抜け出せないという当然の指摘をしていました。サッチャーの規制緩和・民営化路線によってイギリスで若者の失業率が高まり暴動などが起きたことも紹介され、やっと、若者が置かれた社会的背景に目が向けられていくという展開になりました。

ただし、スタジオのワタミの社長やテレビによく出ている波頭亮 などは、若者に対して<若者はちゃんと努力しろ。社会のせいにするな>というメッセージを発し続けていました。また、横浜市で教育委員になったヤンキー先生義家弘介も、そのような状況は「まったく問題ない」と言い放ち、若者が努力をするチャンスだと宣っていました(わかってないから教育委員になれたんでしょうね)。

結局、<どんなに失業率が高かろうと、仕事はどこかにあるから見つけろ、自分で仕事を作り出せ、インターネットでどんどん起業もできるぞ、やる気があればチャレンジできる、自己責任が大切だ>というのが、新自由主義オヤジの言いたいことなのです。<どんな仕事でもやりがいがあるはずだ。文句を言わず努力をしろ>というバカげた説教も聞かれましたが、そういうことを言う連中は、この社会のシステムを底辺で支えている若者の労働の現実を知っているのでしょうか。労働基準法などまったく通用しない、治外法権の労働現場を土台にしてはじめて実現される「自己努力」と「成功」の物語!

和民社長の渡邊美樹氏は「自由主義は努力しない人はご飯が食べられない社会なんです。そうじゃなければ社会主義がいいとなる」っていうようなことを言っていました。社会主義=統制経済=国家社会主義という図式が前提で彼は言っているのですが、結局、こういうことによって、労働者の権利を奪い競争を押し付ける新自由主義を合理化し、統制経済ではない「もう一つの世界」「第三の道」をつくり出す運動をつぶしていきたいということでしょう。 ※追記:私は渡邊氏の努力や経営を全面否定しているわけではありません(よく知りませんし)。

国家に依存する「モノとり」ではダメであり、自らが仕事やネットワークを創造しなけらばならないのは確かでしょう。しかし、そのための条件と能力が剥奪されている現実が再生産されているのに、自己責任にすべてを帰する新自由主義イデオロギーは、政府や大企業の責任を免罪するだけです。そして、若者たちを無力感に突き落とし、連帯を妨げ、「奴ら」のやりたい放題を許す野蛮なイデオロギーです。

(若者だけの問題ではないですが)

ともかく、この番組の前半の図式「大人vs若者」は、「導入」として敢えて採用したのでしょうが、浅薄だし長すぎました。ガングロギャルを出すなら、彼女達の言葉にならない思いをもっと徹底的に表現させるべきでしょう。

全体としては、泉谷しげるの感覚がよかったです。

公明党の永住外国人地方選挙権付与法案2005年10月25日 22時46分40秒

公明党が永重外国人に地方参政権を付与する法案を提出したというニュースが流れました。でも公明党の「東順治国会対策委員長は記者団に「今国会での成立は物理的に無理だろう」と指摘した」というのだから、「独自色」を出すということなのでしょう。

公明党のHPでは条文案を見つけられませんでしたが、これまでと修正した点ははっきり書かれていました。 http://www.komei.or.jp/news/daily/2005/1022_02.html

[公明党が]今回提出した法案は、韓国で今年6月、外国人永住者 に地方選挙権を付与する法律が制定されたことなどを踏まえ、 相互主義の原則に基づいて、付与対象者を「この法律により付 与される地方選挙権と同等と認められる地方選挙権を日本国 民に付与している国の国籍を有する永住外国人に限る」と修正 した。

周知のように、朝鮮総連は反対しているわけですが、民団などの在日コリアンの人々は法案実現に向けて努力しています。私たちも無関心ではいられません。

靖国神社参拝問題も同様ですが、植民地化や侵略戦争を合理化どころか賛美する軽薄な議論は論外ですし、ネットにあふれる、だだっ子幼児の叫びのような夜郎自大の排外的・差別的落書きは、日本民族の「恥」だと思います。ですから、そのようなスタンスからの、公明党攻撃には私はけっして与しません。

ただ、相互主義をとることにした「修正」は、すぐに賛成はできません。公明党の論拠を検討していないので、この時点では感想的なことしか述べられませんが、自自公時代からあった朝鮮籍排除への回帰で成立を容易にしようということではないのでしょうか。

また、相互主義というのも、日韓関係においては意味がある面はありますが、元来は参政権に反対の立場から始まった議論ではないでしょうか。

ともかく、「小泉構造改革」に見られるメディアを使った扇動・情報戦が「上から」展開され、他方ではジワジワと罵詈雑言による破廉恥暴言の突撃隊的運動が「下から」展開される中で、この問題について(も)冷静な議論も判断ができなくなっています。

原理的には、日本国籍の取得=「帰化」が常に選択可能でなければならず、韓国・朝鮮系の日本国籍者が何ら「同化」を強制されずに日本国民としての権利を保障される状況がつくられなければならないはずです。しかし、同化を迫る日本社会の根にある一貫した問題があります。戦後60年経っても私たちが植民地政策、同化政策を清算し切れていないことは明らかです。

他方では国際化が進む中で必然的に、外国人を社会的に受け入れる枠組みをつくっていくという別のレベルの議論もされています。

次元の異なることをきちんと整理して議論するということが、今の現状は決定的に欠けているのではないでしょうか。

自民党改憲案の印象2005年10月29日 22時50分07秒

自民党の改憲案。夏に出た案よりはたしかに「後退」したように見えますね。宮沢喜一氏は「予想したよりはるかに穏やかなものができた」と評価したそうですが(毎日)、そうでしょうか。もちろん、改憲居士中曽根氏が「不満」というのはよくわかりますが。

朝日新聞の社説では、

結党から50年でたどり着いた改憲の姿としては中身に乏しい

って言うけれど、本当にそうでしょうか。基本的にはこれまでの方向が踏襲されており、さらに曖昧な表現の中で「やりたいことはやれる」ということではないでしょうか。

前文にわざわざ「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し」などと書かれています。

「愛国心」をオブラートに包んでいるつもりでしょうが、「愛情」という個人の内面から発せられる本源的な感情を云々する無神経さを感じます。

また、天皇の行う国事行為に、ちゃっかり首相の解散権に基づく衆議院の解散を入れているわけですが、「内閣の助言と承認に基づく」ことも消えているようです。

9条1項は、そのままでも、「自衛軍は、第一項の規定による任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び緊急事態における公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる」って言うんだから、「何でもアリ」もアリってことなんですね。

集団的自衛権についても集団的安全保障についても、まったく議論を避け曖昧な条文にするのだから、恣意的にいくらでも自衛軍が活動できてしまう、恐ろしいものです。

そして、前文と対応するのだけれども、従来の改憲案通り、「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う」と、立憲主義の本義を忘れて、国民に自覚しろと説教を垂れる、本当に「自覚」を忘れた政治家が書くに相応しい「人権制限志向」が随所にあふれているわけです。

自由や権利には責任や義務が伴うなんて、一般的には当然のことを何で、国家権力を縛ることが目的である憲法に書けと権力者(政治集団)から私たちが言われなければならないのでしょうか。

弱肉強食の新自由主義や、小泉劇場に見られるポピュリズムによって「公の秩序」の破壊を推進している(少なくとも反対していない)人々がよく言うよ!

その他に「宗教的活動」についてなどいろいろあるのですが、ともかく、自由民主主義(リベラル・デモクラシー)を浸食することによって、公共的なものを再建できると錯誤している国家主義者の改憲案としか思えません。

今後、さらに改憲論は活発化するでしょう。1)必要最小限度の武装防衛力の保持と核廃絶・軍縮活動の明記、2)天皇に最大限の基本的人権(退位と皇族離脱権を含む)を保障したうえで、天皇の国事行為を一切なくす(共和制への過渡的)象徴天皇への純化、3)国会の発議による重要事項国民投票制の導入とい方向での改憲はどうでしょうか。

ともかく、憲法と改憲について、市民がもっと議論をしていく必要を感じます。特に「天皇制」廃止の合意は今すぐは困難でしょうが、単に女系の世襲についてだけではなく、幅広い議論をすべきでしょう。

ということで、改憲について触れている記事のあるブログにTBをおくらせていただきました。