「70年代的なもの」のレトロ化2005年11月18日 23時57分53秒

紀宮さんの「降嫁」、わが国の真の主権者ミスター・シリー・プレジデントの来日、日本国籍保持する人権侵害元大統領の拘束など、重大な出来事が次々に起こるのですが、私には新聞をじっくり読む時間もないという有様です。

どうして、こんなに時間がないのかというと、今の御時世ですからね、ということになるのですが、どこの組織でも、物事の意思決定やコミュニケーションがやたら形式化・官僚化されていて「お仕事」を増やしているということがあるのではないかと思います。

それは、マックス・ウェーバーが指摘したように、近代化が進めば機能的な集団の組織化・官僚化が進むということの延長にあることは、確かでしょう。

ただ、そこで思い出すのは、70年代には、さかんに「管理社会化」が論じられたことです。管理社会というのは、効率化のはてに、人間が組織の歯車になり、コミュニケーションが冷たい形式的なものになっていく、「非人間的」な社会というイメージでした。

管理社会の対極にあったのが、あのジョン・レノンのうたった「イマジン」の理想へ向かう世界であり、当時、かなりの若者たちが何となく共有していた、<生活の中に「自由」が浸透していく>というイメージだったと思います。それは、ラディカリズムや「進歩派」「革新派」のいだいていた政治社会レベルの理想や展望とは、また別次元のものでした。

もちろん、すごく雑な言い方をしているのですが、60年代から70年代にかけて、高校進学率が90%を越えたあたりから、すでに管理社会化が始まっていたからこそ、若者はジョン・レノン的なものに共感したわけではありますが。

さて、東武が運転士を懲戒解雇 というニュースを聞いたとき、私が最初に思い浮かんだのは、この「管理社会」という言葉です。今の社会は、70年代的な感覚から言えば、すでに超管理社会になりつつあるといえるでしょう。

私は、東武鉄道がこの運転士を解雇したことについては、具体的な状況やこの運転士の勤務態度等の情報があまりないので、特に賛否は言えません。ただし、実際に私の子どもの頃、友人が国電(懐かしい!)の運転士さんにより運転席に入れてもらったのを知っています。それに類することを、目撃したり経験したりした人はたくさんいるでしょう。

それに限らず、生活のあらゆる面において、今日のルールや規則では許されないことが、昔はおおめにみられていたと思います。よいとはされていなくても問題にされていなかったということも少なくありません。

おそらく70年代に子ども・青年時代をおくった人にとって、今の若い人々の規則・マニュアルに対する感覚は「かなり俺たちの若い頃とは違うな」というものだと思います。これは学校をはじめ、育つ環境が異なっているのだから、当然そうなるわけですが。

話を東武鉄道のことに戻すと、「処分が厳しすぎる」という意見が多かったそうですが、それは、小さい子どもが絡んでいるからでしょう。子どもに甘いのは日本の庶民の伝統であり、それは(西洋)近代的な管理教育とは違いますからね。

いずれにせよ、管理社会化が進めば進むほど、どこかでそれを人は窮屈に思うわけです。だからといって、それが管理社会全般への「反抗」へと向かうことはありません。管理は教育や文化の中に前提されているからです。

だから、ジョン・レノンに象徴される「70年代的なもの」は、レトロであることで、意味があるにしても、時代の主流には成り得ません。

「管理社会」全般を覆すことは困難ですが、「管理」をコストとして受忍できなくなる人々が「反抗」や「無視」に向かうことはあり得ることです。それが、別の形の管理を誘発するのが、今の時代ですけれども。

暗くなる話ですね。本当は、快楽としての消費だとか、効率化と組織化などという話と絡み合うのでしょうが、整理できないのでやめて、ジョン・レノンを聴いて寝ます。