「英語ファシズム」と英語幻想2005年11月26日 22時44分56秒

私の周辺でも英語学習熱の高さを感じることが多くなりました。胎教として英会話を聞かせると良いとか、「バイリンガル」に育てるために3歳児を英語教室に通わせるなどと、若い親御さん達が真剣に話しあっているのを耳にすると、苦笑するだけではすまず、頭を抱えることもしばしばです。

ブログ「世に倦む日日」の「英語ファシズム」に関する記事に私も共感しました。そこで紹介されている、留学生の方が言われている「英語をしゃべること、または英語が必要である状況を微塵も疑問に思ったことの無い人間」が、私のような庶民の周りにも増えているように思います。

「キッズ向け英会話スクール」が都市部で族生しているのは、誰もが目にしていることですが、さらに民間や海外の英語教育機関が現実に公教育にも浸透していくでしょう(すでに始まっているようですが)。 小泉の新自由主義改革は、産業・金融・福祉・医療にとどまらず、教育にも確実に触手を伸ばしていますが、「英語教育」特に小学校英語はその格好の入口の一つになるかもしれません。

文部科学省は、「英語が使える日本人」の育成をめざし、すでにさまざまなプロジェクトを行っています。次の学習指導要領改定では、何らかの形で、小学校英語が位置づけられるのは確実のようです。

「総合的な学習の時間」の中で行われている、現在の小学校英会話活動の発展というレベルにとどまらず、評価される教科となれば、入試をはじめ大きな影響が出てくるわけです。そして、郵政民営化同様に国民的な本質議論をスキップして、英語の早期教育が公的に位置づけられれば「英語ファシズム」状況は加速化します。

私はコミュニケーションの道具としての英語を学び使えるようになることは、大切だと思っています。しかし、それはあくまで、母(国)語で論理的・批判的な思考ができ、母(国)文化の基盤にたてる人間として、伝達したい意思や意欲があることが、前提さなければならないと思います。少なくとも教育における理念として。

道具としての英語(米語ですが)そのものに先験的にありがたい価値があるとみなすのは滑稽です。これは昔からいわれている「言語言語帝国主義」イデオロギーに従属する奴隷根性でしかありません。

他方、グローバリゼーションの中で、英語能力が収入や「社会的地位」と一定の相関を有する現実があることは確かです。しかし、そのような英語能力は、たとえば、有名大学を出ていることと収入・「地位」との相関や、親の年収や職業との相関と同じように、<全員が獲得できるわけではないリソースの一つ>に過ぎません。これも幻想・イデオロギーですね。せいぜい競争のメルクマールが英語になるということ。

だから、英語早期教育が<子どもの時から英語をありがたがらせる幻想>を強化すれば、思考様式や文化の基盤となる言語について、非常に危険な状況を招く危険があります。小学生には、まず母語の表現能力・コミュニケーション能力が必要なのは明らかです。小泉を何となく支持するムードと同じに、思考を放棄すると、恐ろしい結果を招くでしょう。

また、英語をうまく修得できなかった相当数の子どもは、「英語嫌い」にとどまらない、ルサンチマンをもち、その恨みは日本版スキンヘッズを量産させるかもしれません。

少し飛躍するようですが、パレスティナの少年少女が、自分たちの不当な状況をテレビカメラに向かって英語で訴えているのを時々目にします。彼らは訴えたいことがあるから、伝わるように話すのでしょう。道具としての英語を身につけることは、武器になるという好例ですね。(あのマルクス先生もどこかでそういってたけれど)。本来、外国語を学ぶことは、コミュニケーションの中身や必要(欲求)と相即不離なはずです。

ということで、

1)小学校英語を始める前に、国民的議論が必要。

2)英語はありがたいという英語崇拝や、英語を身につければ将来確実といった英語幻想によって、子どもの言語・文化環境に(イデオロギー的)歪みを生じさせる危険がある。

3)英語をつかってコミュニケーションをする、実質的な動機・内容があるのかないのか(育てられるのかどうか)が重要。

おまけ) 中高など学生の方が読んでいらしたら、誤解ないとは思うのですけど、<英語を勉強しないでよい>ってことじゃないですよ。英語は単語も文法もちゃんと身につけた方がいいですよ。特に、社会的問題意識を持っている人は、英語を武器にして国際的な連帯だってできるのだから。私も今でも必要で勉強しています(sometimes)。