「もしも全共闘と日本共産党が合流していたら」2005年12月12日 18時14分21秒

 歴史をふりかえって「もしも・・・だったら」と考えることは、その時の現実がはらむ豊かな可能性を洞察することに他ならない。そのことを改めてふと思ったのは、「世に倦む日日」で「ジョンが生きていたらイラク戦争は阻止できていた」の記事で、
2月15日はロンドンで百万人の大集会があり、この数字が世界の人々を驚かせた。日本ではイラク反戦は盛り上がらなかった。せめて十万人の動員はあってもよかった。
と書かれていたのを目にしたから。

 イラク戦争開戦前後、2003年の3月の集会について、意義はあったが、世界の他都市と比べて、あまりにも少ない参加者だった。自衛隊派遣の時もそうだ。
 宮台真司が言うように、<今どきデモや集会で吹き上がっても何の意味もない>という面は確かにある。
 しかし、やはり人が街に出て意思を表明する行動は、TPOが適切であれば現実を動かす力の一つになり得る。
 日本の集会の数が少ない原因について、「一騎当千のカリスマがいたからではないのか。人物がいなければ運動は絶対に成功しない」とthessalonikeさんは書いていて、(それはジョンレノンの魅力的な話になるのだが)、そういう面もあるだろう。が、私は、この日本の社会の政治・文化そのものの問題だと思う。人の意思形成や行動する力そのものを溶解させてしまった、この国の閉塞した状況そのものが根本的な原因なのだ。
 もし、より多くの人がイラク攻撃に疑問をもち、周りの人とそのことを自然に話し、ある人は自然に抗議の行動に移るという状況があれば、運動のカリスマは大衆が育て・創り出すこともできたかもしれない。

 そして、その閉塞した政治・文化状況をつくり出した責任の一端は、左派・革新派の政治エリートや指導者たちにもある。

 最近、通読した島泰三『安田講堂1968-1969』(中公新書)には、次のようなことが書かれていた。
ひとつの仮定をここに置く。もしも、東大闘争の最終局面、つまり1968年の12月の段階で、日本共産党と全共闘が合流していたとしたなら、事態はどうなっただろうか?と。あるいは、日大では右翼・体育会と日大全共闘が合流したとする。
・・・(略)・・・
 そこから、本格的な闘争が始まるはずだ。それがどうなるにしても、日本は新しい道を模索することになる。それは、是非とも必要な道だった。
 なぜ、それがよくても悪くても選択しなければならなかった道だと言うかといえば、それがなかったから、今の日本に至りついたのだと言えるからである。
 この本は重い書である。私は、全共闘の暴力的な闘争方法を基本的に評価できないのだが、この書では、闘争の必然性とその情念をよく理解できた。著書の誠実さが伝わってきた。

 引用文中の略した部分で「この仮定を語ると、当時青年だった現在老年初期の人々は、一様に『とんでもない』という顔をする」とあるが、おそらく政治運動や左翼について、ある程度の知識がある人なら、誰でも「とんでもない」と言うだろう。

 しかし、この歴史の「もしも」はあまりにナイーブすぎるからこそ、現在、何が求められているかを端的に示していると、私は思う。
 もしも「日本共産党と全共闘が合流していたとしたなら」が可能になっていたと仮定すると、それは東大闘争だけの話だけではなく、「左翼」の自己改革ができていたということだろう。
 自己改革とは、日本共産党がスターリン主義を克服し、運動を引き回し党勢拡大の手段にすることをしないということを意味する。社会党も、新左翼諸党派も同様である。全共闘の暴力主義の傾向も同根だと思うので、やはり克服されるということだ。
 いずれにせよ、その「もしも」が成立するような状況ができていれば、その後の連合赤軍事件や公労協ストの敗北やオイル・ショックがあったにせよ、「自分たちだけがいつも正しい」という独善に基づく、労働組合やさまざま分野の運動の分裂、弱体化をかなり避けることができたろう。「内ゲバ」や組合選挙での泥仕合から、若者が政治に接近できないという傾向ももう少し何とかなったかもしれない。

 日本共産党内でも、大学闘争を牽引した「新日和見主義者」たちの粛清も80年代の平和運動における党員追放もなかっただろうし、中央指導者に忠誠を誓うものしか生き残れない中世的な党運営もなくなって、複数の潮流が存在するようになったであろう。
 社会党・共産党・新左翼の断絶ではなく、論争は継続されたはずだし、全体主義的な社会主義を克服する道も、グローバリゼーションに対抗する方策の追究も進んだはずだ。少なくとも、68年世代が国会にもっと進出し、活躍していただろう。

 というわけで、そうなっていたらなら、イラク戦争や自衛隊派遣反対の集会には50万人集まっていたかもしれないし、北朝鮮拉致被害者を支援する集会には「革新」党派が先頭にたって100万人集まっていたかもしれない。

 そうならなかったのは、左翼・「革新」勢力のどうしようもない保守性、党派主義、「自分たちは正しい」という独善が大きいということではないか。「全共闘と日本共産党が合流」できず徹底的に憎悪し合って終わったように。そして、その根底には、言葉によって相手の納得を得るという民主主義的な姿勢の欠如=<物理的な暴力や多数決によって「正しさ」を押し付けようという全体主義>がある。

 左翼・「革新」の今なお残るその傾向を何とかしなれば、憲法改悪や「改革ファシズム」を阻止することもできないのではないか。「決定史観」に立たずに歴史の豊かな可能性から学ぶということは、それを現在と未来に生かすということだろう。