靖国参拝はどのような意味で「信教の自由の問題」なのか2006年01月13日 23時14分29秒

 朝の身支度をしながら、ほんの5秒程度テレビ画面で、自由民主党の武部氏が、<靖国神社参拝は心の問題で政治問題化させるべきでない。わかりやすく言えば「信教の自由」の問題だ>というようなことを言っていた。

 相変わらずデマゴギッシュというか、「盗っ人猛々しい」というか、ケジメが微塵もない言いたい放題。
 しかし、この男は「マジ」で言っているようなのだから、始末が悪い。

 「心の問題」というお得意の詭弁を弄し始めたのは、武部氏が忠勤に励む御仁だけれど、ヒトラー・ゲッペルスばりに、程度の低いすり替えを何回も何回もメディアを垂れ流されているうちに、新聞の投書欄にも<靖国で戦没者の御霊に祈り、平和を祈念する心を何で問題にするのか>などという声が増えつつある。まあ、狙い通りというところだ。

 しかし、武部氏よ、信教の自由・精神の自由という人権を「冒涜」するのはやめてくれ!
 問題になっているのは、
 ①国民の「信教の自由」を保障し「政教分離」原則を貫く責任を有する内閣総理大臣が、靖国神社という特定の神社を「公的に」あるいは「政治的行為として」参拝すること
 ②内閣総理大臣が、A級戦犯を祀り過去の侵略戦争を美化する特定の神社を同様に参拝すること
 ③内閣総理大臣が中国・韓国の政府や東アジア諸国の人々が非難し、すでに政治的・外交的にイシューとなっている、特殊な神社への参拝を続けること
 なのである。

 小泉純一郎が私的に勝手に「心の問題」として参拝したいなら、総裁選の「公約」なんぞにせず、ひっそりと勝手に参拝すればよい。それはもちろん「信教の自由」であり、私的に神社なり仏閣なりに参拝するのと同レベルといえるかもしれない。(極端な例だが)統一協会や法の華三法行やアレフの宗教施設を参拝するのと同様に、仰るとおり「心の問題」であり「自由」である。しかし、それがメディアに報道され、国民に批判され、その意味で「政治問題化」されないなどということがあり得るとしたら、メディアも批判も議論もいっさいが抑圧された政治空間でしか起こりようがない。山拓氏が「総裁選の争点は世論がつくる」と言ったそうだが、政治家として最低限不可欠の認識だろう。

 だいたい、ナショナリズムを育みながら、遺族会や神道内に根強い右翼潮流を操作的に利用するために、政治問題化させているのは小泉純一郎とその取り巻き連中ではないか。
 靖国神社と密接に連なった国家神道に抑圧された宗教者の「心の問題」や遺族を靖国神社等に合祀されることを拒否したキリスト者の「信教の自由」を、武部氏はどれだけ真剣に考えたことがあるのだろうか。

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