続:無責任な民主党前原執行部2006年03月01日 22時04分26秒

昨日の永田議員の記者会見と、民主党による全面謝罪声明で、「ガセネタメール」問題は一応の決着をみたようにも見えます。
しかし、前原代表が永田議員に事前に「メール」の写しを見せられていたこと、党首討論を前に「楽しみにしていてください」などと公言していたことなどの事実経過から考えて、国対委員長(幹事長も?)辞職ですませるとしたら、無責任です。
永田氏の辞職を要求=都議会民主党
「送金メール」問題をめぐって、都議会民主党は1日、民主党本部に対し、永田寿康衆院議員の辞職を求める申し入れを行った。前原誠司代表ら党執行部に、国民や党員に対する説明責任を果たすよう求めた。 

というのは、当然の動きでしょう。

さらに、この件で前原氏らの責任が重大なのは、耐震偽装問題・ライブドア問題・輸入牛肉問題・防衛施設庁談合問題などについて、小泉自民党の責任を解明していくのがこの国会の使命だったのに、完全に焦点は「メール問題」に移ってしまい小泉自民党は逃げられそうだということです。そして、自民党幹部が「メール問題で国会が静かになっちゃった。明日から何をしようか……」という中、
与党は2日、国会内で幹事長、政調会長、国対委員長が会談し、後半国会について(1)行革推進法案(2)医療制度改革法案(3)教育基本法改正案(4)国民投票法案――の今国会成立を目指す方針を確認した。さらに、自民党内では「道州制」を新たな目玉と位置づけ、モデルケースとなる北海道道州制推進法案の成立を目指す動きも強まっている。
来年度予算案は成立確実も 宙に浮く「後半国会」より

という状態にまでなってしまっています。

民主党の前原執行部は、「党内事情」による延命をはかっているようですが、その政治責任は重大ではないでしょうか。「自爆テロ」がブッシュらの国政法違反を助長しているのとまったくアナロガスなのが、今回の「自爆メール」の妄動なのです。

重要な国会中に国対委員長が辞職しなければならなくなるという事態そのものが、国民からの付託を受けた野党第一党として、絶対にあってはいけない状況でしょう。
少なくとも、1)「メール問題」について執行部とは別に特別調査機関をおいて緊急調査と公表をおこなう。2)代表以下執行部の辞職。3)耐震偽装・ライブドア問題などについての、国政での緊急課題を党外の勢力にも呼びかけて糾明する調査・運動体の設置。
くらいは、実行する責任があるように思います。自民党が逃げ延び、野党がまともな追求を出来なくなったら、議会制民主主義の死を招きます。だから、単に民主党という政党だけがダメージを受けるのではない、重大問題です。

日本はやはり全体主義社会か?駒大苫小牧高野球部辞退2006年03月04日 23時08分55秒

第78回選抜高校野球大会の出場を駒大苫小牧高が辞退したという。

本来、一私立高校の一部活動が、ある大会の出場を辞退したなどということは日常茶飯事だし、外部のものがとやかくいうことではない。
しかし、現実には、「高校野球」というのは、一「部活」の問題ではなくなってしまう。学校教育における「特別活動」の一分野に過ぎない部活動の、そのまた一競技に過ぎないものが「特別扱い」されることで、どのような歪みをもたらしているかは、まともにモノを考えられる人にとっては自明だろうが、ここではひとまずおいておこう。

ともかく、こうした問題で私が痛感するのは、日本の社会では、個人の責任の前提となる、倫理や道徳がまったく根付いていない、ズブズブのケジメのない社会であるということだ(societyとしての「社会」と言えるのかどうかもわからないが)。

言うまでもないが、未成年者の喫煙や飲酒が禁止され、未成年者と知ってタバコ・アルコールを販売した者は処罰されるわけだ。まず、それに関わって、問題はどうなのかが問われなければならない。子どもでも知っていることだが、タバコとアルコールは成人には許されている。しかし、未成年者には健康被害がより大きく、また社会として保護する対象であるから、禁止しているわけだ。

飲酒・喫煙をした未成年者自身は、自分たち自身の身体に害を加える自傷行為の意味を自覚し、その行動を反省する責任はある。また、そのレベルでは、その親権と養育義務を負う保護者の責任が問われることになる。これはもちろん、法的にな責任ではない。
そして、この未成年者たちの教育の一端を担った学校やその学校の教員たちが、教育上の責任を感じて、その教育のあり方がどうだったのかを、真摯に反省することはよいことだ。いわゆる喫煙・アルコール教育のプログラムがどうであったのかを問い直すことが求められるかもしれない。

しかし、学校は高校生達の全生活に管理責任をもっているわけではない。高校に入学・在籍したからといって、高校生が個人の全生活と精神すべてを、学校や教員のコントロール下に置くなどという契約を結んでいるわけではない。
学生のすべてに対して責任をもてるということは、逆に言えば、保護者を差し置いて、学校・教員の「分際で」、学生の全人格をまるごと(校外でも家庭でも)管理・指導しているという関係にあるということでなければならない。

そのような、学校に所属する学生個々人の、人格まるごとのトータルなコントロールを是認する、全体主義的な集団帰属関係が前提になければ、ある高校の学生が引き起こした、自傷行為(喫煙・飲酒)の責任を学校が無前提に引き受けるなどという倒錯は生じないはずだ。

しかし、ご存知のように、この倒錯はこれにとどまらない。「昨年、あれだけ世間を騒がせた。言い訳はできない」という論理にもならない、情緒的な「説明」によって、喫煙・飲酒とは直接関係ない、野球部全体の大会参加辞退が決定されるというわけなのだ。

そこにあるのは、「連帯責任」という名の「無責任の体系」そのものである。少なくとも、(元)野球部員の一部が引き起こした法に触れる自傷行為が、野球部全体が大会参加辞退という形でペナルティ=罰を受けなければならないものなら、その自傷行為と野球部の活動との関係性を説明する「責任」が学校当局にはあるだろう。ところが、「昨年、あれだけ世間を騒がせた。言い訳はできない」などという辞職するという校長の言葉が伝えられるのみである。

結局、そこには個人と集団との帰属と自立の緊張感もなければ、透明な説明もルールもない。「責任」という名に隠れた、集団主義的・全体主義的情緒があるだけだ。

社会の網の目の中で、各人がどのような意味で責任をとり、どのような論理と説明のもとに、ルールをつくり適用するのかという、「社会」形成がそもそもできないような、ケジメのなりあり方が、情緒的な賞賛(たとえば小泉劇場)とバッシング(たとえばイラクでの誘拐被害者への「自己責任」追及)をくり返していく。最近の、ライブドア・メールでの永田議員や民主党指導部の「責任追及」が一転して「全面降伏」へと反転していくのも、根は同じだろう。
北朝鮮や中国の政府の不法行為をとりあげて、朝鮮人・中国人全体を敵視する連中のアホ・ナショナリズムも同根だ。

学校のような部分社会であれ、国家全体であれ、このような全体主義的な無責任の体系を克服していきたいものだ。

「量的緩和政策解除」の憂鬱2006年03月10日 20時07分32秒

「量的緩和政策解除」をこのタイミングで断行する中央銀行の「独立性」に敬意を表しつつ、何ら回復軌道を実感できない、一庶民としては、毒づくしかなわけです。「いったどこが、『景気の持続的な回復』なんだ!」と。

たしかに、<お金>の指標は<利子>であって、健全なマーケットメカニズムからすれば、量的緩和政策は「きわめて異例の政策」というか<異常>な政策です。しかし、デフレスパイラルに嵌りこみつつあった新自由主義構造改革下の日本経済の実態は、その<異常>政策に託すしかなかったわけです。

政策の効果というより、外需とリストラの嵐の結果、やっと実体経済の一部に「回復」がほのかに漂ってきたからといって、すぐに<正常>な金融政策に戻れる状況が現出するような、バランスのとれた状況に日本経済があるわけではないのです。だいたい、格差構造は完全に日本の経済・社会構造にビルドインされてしまっています。そこにメスをいれる構造調整政策をおこなわなければ、「税制改革」などありえないでしょう。

「オカネの危うさ」実感させたが・・・2006年03月30日 00時14分38秒

NTTデータのセキュリティの責任者が銀行のコンピューターシステムから顧客データを持ち出し、偽造カードで現金を引き出した事件で、容疑者が逮捕されたという。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060329-00000206-kyodo-soci

現在、多くの金融機関がインターネットを通して、オンラインでの取引ができるようになっている。それどころか、マイクロソフトのMoneyのようなソフトウェアや、特定金融機関のネットバンキングによるサービスによって、個人の全資産を管理できるようなサービスまでやっている。

そこでは、「暗号化されセキュリティが安全に管理されている」といううたい文句のもとに、個人のIDや暗証番号までサーバーに保存する場合が多い。その恐ろしさを今回の事件は見せつけてしまった。

いくら技術的にセキュリティがかけられていても、人間が情報を管理する以上、今回のような事件が起きる危険性を完全に排除できるのかという疑念が生まれるからだ。

しかし、日頃から感じているのことは、<現在の「経済の血液」にまつわる状況というのは、私たち個々人のあり方を反映もしているし、逆に規定もしている>ということだ。

そもそも、現在の「高度情報化社会」のもとでは、通貨=オカネ(money)が、単なるデジタル情報にまでなってしまった。かつて、マルクスが『資本論』で貨幣の呪物的性格を論じたが、その物象化が「モノ」を乗り越えて極限まで進んだのが、今の社会だろう。

マルクスの時代は、まだ貴金属としての金が「価値のあるモノ」として機能していたのだけれど、今や、オカネそれ自体はデジタル記号でよい。マルクスがオカネが転化した資本を関係として見たように、オカネも人と人との関係から生じる媒介者だ。

それは、現在では皆が信認していますよということの上に、預金通貨や各種信用(クレジット)というオカネのシステムが成り立っているという形となっている。オカネの信認は、国家がバックにあることが条件ではあるけれど、皆の信認(信用)を失ったら、おしまいなのだ。

今回の事件は、組織面で、実はセキュリティがなっていなかったという面が大きいだろう。しかし、技術の面でも、組織の面でも、システムが高度化と、その脆弱性(「セキュリティ・ホール」)とのいたちごっこは続く。

そして、セキュリティを高めることが、実はオカネ・システムを支えている、私たち個人への負荷を高めることにも帰結していく。それは「自己責任」という今のところ呼ばれたりしている。
「便利なオンライン・サービスを受けるのだから、責任もってくださいね」とか、「今は、オカネを盗る泥棒に気をつけるだけでは済みませんよ」というのは、始まりの段階に過ぎない。

オカネがデジタル情報になっていくにつれて、私たち個人の財布が情報データ・ウォレットになり、その情報が管理されていく。さらに、私たちの行動自体が、システムに把握され管理されていくことになる。

オカネの問題は、会社の組織(と技術)だけではなく、社会全体の組織(システム)と技術の問題につながっている。