ブッシュ政権自らの拉致疑惑を見ると2006年05月01日 22時30分06秒

 最近のニュースで、北朝鮮全体主義政権による国家犯罪の被害者家族の横田早紀江さんや、金ハンミちゃんの家族ににアメリカ合衆国のブッシュ大統領が面会したニュースは、日本でも大きく報道されました。
http://www.todayonline.com/articles/115647.asp
 人権侵害の被害にあっている家族たちが、現にある国際関係の中でパワーを保持する政府を動かそうとすることは、大きな意味での運動・闘いの一つだと思います。

 しかし、日本では、「拉致問題を解決できない日本政府」と対比してブッシュ政権やブッシュ大統領を「拉致問題に取り組んでくれるかもしれない」救世主であるかのようなトーンの受け止めをしている人がいます。
 ブッシュ大統領が北朝鮮の不法行為に取り組むとしたら、それはアメリカ合衆国現政権の国際戦略に利用できると判断できる限りに過ぎません。その<利用>がどのように行われるかは、楽観的に期待できるとも思えないのが現実です。

 現にブッシュ政権は(ないしその統轄下にある国家機関)は、<拉致>の下手人であり、同様の人権侵害を今も堂々と(?)行って不法行為に手を染めています。

 日本のメディアは大きく取り上げることはない(米軍再編のために途方もない国費を簒奪される問題だって遠慮しながら?とりあげているのだから)けれど、ヨーロッパ等では「テロ容疑者」とされた一部の市民を国外に不法に拉致したのが、アメリカの国家機関だと問題とされています。
 たとえば
http://www.msnbc.msn.com/id/8248794/site/newsweek/#storyContinued
そんなブッシュ政権に、人権侵害と対決する正義の観点からの取り組みを期待することはできません。

 グワンタナモの基地で、今なお、国際法違反の拉致と拘束を続けている人権侵害行為の張本人ブッシュが、本気で北朝鮮や韓国や日本の被害者を救済するために行動すると考えるのは、脳天気としか言えません。

 拉致問題の解決の原動力は、金正日・ブッシュらの国際法違反・人権侵害行為を批判する国際世論の力でしょう。そして、全体主義政権を倒して民主化を実現する北朝鮮民衆の闘いと連帯して、日本や韓国の世論と運動が前進することがもっとも重要だと思います。

お笑い教育基本法改「正」?2006年05月03日 23時23分59秒

 現行日本国憲法下の憲法記念日もあと何回でしょうか?
 私は、原理的には憲法改正賛成ですが、反立憲主義勢力が進める憲法「改正」には反対です。

 改正に必要な国民投票法は、今国会成立は難しいと言われていますが、日本国憲法と一体の「教育の憲法」=教育基本法改悪については、数にものを言わせて押し通す気配です。

 与党・政府の教育基本法改「正」案。
 「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」という表現になりましたが、「愛国心教育」として学校現場に、これまで以上に批判精神を圧殺する「愛権力者教育」=亡国教育を強制する根拠になることでしょう。

 自民党文教族などによる「教育基本法改正促進委員会」は、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである」という現行教育基本法10条を敵視してきました。
 この10条は、戦前の国家統制に基づく教育支配への反省に基づいていたわけですけれど、権力者=文教族=ニセ愛国者にとっては、これほど都合の悪い規定はありません。そこで、彼らは「教育行政は不当な支配に服することなく」などという条文に180度変えようとしてきたわけです。
 本当に大笑いするしかないですね。国家権力が行う教育政策を批判されたくない、強制したい、だから教育行政に対する「不当な支配」?は許さない、というわけなのです。民主主義をまさにひっくり返そうというわけです。

 彼らが大嫌いな「日教組」や「国民の教育権」論者が、本当に間違っていると思うなら、民主主義的な討論によって論破すればよいのです。民主主義社会において、教育や内心については、国民の意思を最大限尊重するべきであるという、ABCがまったくわかっていないのです。いかに彼らが立憲主義的な姿勢と背反しているかがよくわかります。
 権力によって教育を支配したいという、権力者の欲望丸出しという恥も外聞もないのは、さすがにまずいということで、「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり」という表現として改「正」案に一部残りましたが、「国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである」という大事な点は見事に?消え去りました。

 極右政治家が知事を行っているある自治体が、「職員会議で挙手をさせるな」という通達を各学校に出したそうですが、本当に「お笑い」としか思えないようなことが、現実に堂々と臆面もなくまかり通っていくのが、現下の日本国の一断面だということでしょう。

連休明けで共謀罪・教基法国会へ2006年05月06日 18時24分01秒

 すでに連休を終えた方や、連休などなく仕事に追われている方も多いと思います。
 私は天気が良かったので、近所に開店したカフェに行きました。おそらくご夫婦で開業された店で、思わず応援したくなりました。たくさんのケーキも手作り。何となくぬくもりが伝わってくるお店でした。
 のびやかな空気の中で、いつの世も私たち庶民は、こうした何げない日常を大切にしながら、生きていくしかないのだということを改めて実感しました。
 「戦争中でも庶民はこういう楽しみをもっていた」という話しが、最近よく聞かれますが、それはどのような環境でも、生きている限りは私たちの<生活>があるからです。

 カフェで自由な会話が楽しめるということがなければ、<生活>は息苦しくなります。<生活>をこの緑の微風にふさわしいものにするために、私たちにとって<自由>がかけがえのないものなのです。

 もちろん、共謀罪が与党修正案のまま法律化されてしまったり、教育基本法が改悪されてしまったとしても、そうした<生活>は死滅しません。むしろ<生活>こそが、<自由>が本物になる基盤のはずです。

 それにしても、「組織的な犯罪の共謀罪」に対する御懸念について」http://www.moj.go.jp/KEIJI/keiji30.htmlで、政府は「組織的な犯罪集団が関与する重大な犯罪を共謀した場合に限って成立するので,このような犯罪以外について共謀しても,共謀罪は成立しません」と言います。それなら、なぜそのように団体要件を法律案で明確化しないのでしょうか。
 国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約に沿った共謀罪の新設が必要だというなら、なぜその条約のいう犯罪要件を広げて、恣意的な解釈が可能な法案にするのでしょうか。

 <自由>を巧みに制約するマヌーバーを愛好する官僚・政治家先生たちや、「日本でテロを防ぐ気がないのか」と恫喝する下卑た洗脳家が横行するのは、この緑風に本当に似つかわしくないですね。

過激派が時流をつくる日本2006年05月08日 23時29分31秒

 「昔は少しでも違う意見を言うと<非国民>と罵声を浴びせられてひどい時代だったんだよ。今は自由な世の中になって本当に良かったね」と、上の世代に言われて育ってきたのに、いつのまにやら、「<非国民>と罵声を浴びせられる時代」になっていた。

 こういう罵声と恫喝で、人を萎縮させ、異論を封じるやり口は、全体主義運動の典型なのだが、それは、多くの場合、<正義>と<改革>を旗印とする過激派として現れる。

 たとえばこういうことがあった。
 幕末の孝明天皇は、青年天皇として、確かに非現実的な<攘夷>主義者として出発したが、尊王攘夷の過激派を嫌い、幕府に政治を委任する伝統を守ろうとする穏健な人だった。彼がもっとも信頼したのは、会津の松平容保だ。
 しかし、さまざまな紆余曲折と偶然を経て、過激な倒幕主義者が、雄藩の権力を握ることができ、朝廷を動かし、敵失を生かし、戊辰戦争を挑発して、<倒幕>という果実を得ることができた。彼らは、たとえば大久保・木戸らは、確かに、過激テロリストよりは情勢分析ができる政治家であったが、しかし、やはり<過激派>(の末裔)ではなかったか。

 彼らはあたかも<倒幕>が理性的・計画的な運動の結果であるかのように描き出した。そして、天皇の信頼を得た会津を容赦しなかった。天皇の意思に反した自分たちの姿を隠蔽するためにも。
 さらに言えば、暴力と挑発によって政治的目的を達成する<過激派>が権力を握ったからこそ、明治以降の政府の政治展開には、常に過激派政治的な側面があったのではないか。内外で彼らが常に追求した、暴力と謀略は、時代の制約であったといえるにしても、それだけではない。

 大衆的にも、その後、過激派のメンタリティは、昭和維新を叫んだファシストたち、戦後民主主義の虚妄を呼号した全共闘、さらに今日の雑多なナショナリストたち(TV評論家からネットウヨまで)に受けつがれた。

 複眼的な視点、冷静な議論と思考実験、それに基づく現実的な改革こそ自由民主主義には似つかわしい。「この非国民め」「護憲は反日」などという罵倒が集団ヒステリーをつくり、理性を奉じる者もいつのまにか、その雰囲気に抗すことができなくなる。
 暴力への衝動と、集団催眠的な浮遊が、今の日本をおおいつつある。その先にあるのは、祝祭的な戦争であろうか。

日本でも中道左派政権を2006年05月14日 22時14分18秒

伊大統領にナポリターノ議員

[ローマ 10日 ロイター] イタリアは10日、国会で行われた投票で、中道左派連合が推していたジョルジョ・ナポリターノ終身上院議員(80)を新大統領に選出した。
 これにより、4月の総選挙で勝利した同連合のプロディ氏が近く、首相に指名される見通し。
 ナポリターノ議員はこの日の投票で、過半数を上回る543票を獲得した。同議員は元共産党党員。
 プロディ氏は記者団に対し、17日までに新政権を発足させたいとの意向を示した。
 ナポリターノというと、<昔の名前>という気もするけれど・・・、そう、かつてのユーロコミュニズムを推進した人物です。
 グローバリズムが進む現在の状況で、どれだけの改革ができるかは予断を許さない状況ですが、イタリアで中道左派政権ができた意義は小さくはありません。

 少なくともブッシュ政権の世界戦略に追随してきた政策からは転換するでしょう。

 共謀罪に教育基本法、そして憲法の反立憲主義的改悪へと、民主主義を破壊する動きが加速している政治状況を好転させるためには、日本でも中道左派政権が求められていると思います。
 小泉政権の次に、安倍政権ではなく福田政権ができたからと言って、国家主義的な動きにストップがかかる保証はありません。今の与党連合の政権を終わらせる必要があります。

 ということは、私たちが求める新しい政権は、中道左派政権にならざるをえません。
 といっても、現在の民主党がそのまま中道左派政権の中軸になれるのかというと、心もとない面もあります。民主党の教育基本法改正案は、自由民主主義の観点から考えて、本当に「改正」案といえるものでしょうか。

ブログ「世に倦む日日」でthessalonike氏が「護憲新党」を提唱しています。私も、既存の政治勢力が大同団結すると同時に、新しい政権担当可能な受け皿がつくられることを望みます。その受け皿が、これまでの<政治>の像を転換するものとなる必要があるということです。
 日本の危機的状況の打開にはある種の<転換>が必要です。

全体主義反対派は多数のはずだから2006年05月16日 23時51分15秒

 現在の日本で、リベラル・デモクラシーや立憲主義を肯定する人は多数でしょう。
 ファシズムや軍国主義やプロレタリア独裁などの全体主義に賛成する人は、少数派でしょう。
 ところが、おかしなことに、リベラル・デモクラシーを破壊する、「共謀罪」導入や教育基本法改悪が、実現されてしまう恐れが、高まっています。

 確かに、反対の声は一時よりは目立ちますが、国会をとりまく世論の関心は高いとはいえません。

 それどころか、実は身近なところで、すでに「精神の自由」をはじめとする自由民主主義的価値が、掘り崩されている事例があります。
 ブログ『とりあえず』で、luxemburgさんが紹介してくれていますが、すでに、この日本という「シロアリ国家」では、<不起立だったという理由で教師を"RE-EDUCATION CAMP"に送り込む国>という恐ろしい状態になっているというのです。

 戦前の人民戦線事件で検挙された大内兵衛が総長をやったこともある「自由と進歩」を誇った法政大学でさえ、法政大学の「茶色の朝」(by『五十嵐仁の転成仁語』)という事態が生じています。

 こういう一つ一つを見逃さず、全体主義(的な動き)を日常の世界からなくしていく努力が大切でしょう。全体主義者たちが、「自由」を圧殺する時に、その圧殺を合理化するために持ち出す<必要性>のインチキさを、きちんと示していきたいものです。

 そのような庶民による努力が展開されずに、いくら<民主主義を守れ>等のスローガンが叫ばれても空回りするだけでしょう。

 スローガンをお題目のように叫んで、実は自分たちの政治勢力の拡大を目標にしている党派に期待しても仕方ありません。そのような党派は、むしろ分解してもらいより大きな新しい流れに合流してもらった方が、現実の政治過程にとっては良いのです。

 そして、その流れをつくるのは、この国の津々浦々で日々展開される、「自由の精神」による努力でしょう。

 当たり前のことなのですが、自分自身への確認として書きました。

世論の力2006年05月20日 19時35分24秒

週末になると、時間ができて、少し考える時間がもてます。

共謀罪新設法案が、あわや強行採決と伝えられながら、強行ができなかったのは、世論の動きに与党が少し不安を感じたからでしょう。

楽観はできないけれど、私が確認できたのは、次のようなことです。

モノが言えない恐ろしい状況になりつつあるからこそ、正しいと思うことを、理にそって、誠実に主張していくしかないのだな、ということ。
身近にあることも含めて、不合理に対して、少数派であっても絶望せず、押しつけがましく叫ぶのではなく、自らの声を届けられる力の成長を楽しみながら、あくまで人々の力を信じていくしかない ですね。