教育基本法を改正してやらせ教育を完成させよう2006年11月15日 21時30分46秒

教育基本法賛成の「やらせ発言」をさせたタウン=ミーティングの問題がクローズアップされているが、法改正の立場から言えば、まったく問題ではない。だから国会で採決の強行をしようとしている「選良」のスローガンは、この記事のタイトルのようであるのが相応しい。

民主主義社会での教育とは、最終的に自己教育である。つまり、自分自身を教育できるようになることが目指される。
たとえば、愛国心や道徳は、社会生活を営む市民の育成には大切なことであるが、その愛国心や道徳は自分自身の価値として内面化していなければ意味がない(自由民主主義社会では)。つまり、学校や周囲の先行者による援助や学習機会という環境ももちろん必要だが、最終的には愛国心や道徳は、自分自身が意識的に育てていくものである。

それに対して、個人は全体の歯車か道具でしかない全体主義社会においては、愛国心や道徳は全体権力が個人に教え込み評価し、外から強制するものである。そもそも、そこでの教育とは指導者や権力者によって注入され、洗脳される営みである。だから教育とは、<やらせ-やらされる>関係においてのみ成立するのである。

教育基本法改正という正しい結論を導くために「やらせ」をやってなぜ悪いのか。そもそも全体主義社会における教育は「やらせ」なのである。卒業式の壇上のどこに国旗を掲揚し、いつ国歌を斉唱し、どのようにな角度とタイミングで礼をし、どのような口の大きさと声量で歌うかを、上から権力者が決定して全体一丸となってやらせるのが、正しい教育なのである。だから、東京都の正しい全体主義教育では、それに疑問を呈するものは正しく処分されているではないか。

「やらせはけしからん」などというなら、教育基本法改正がめざす全体主義教育がそもそも成り立たないのだ。
1940年代の大日本帝国や第三帝国下のドイツやポルポト政権下のカンボジア、そして朝鮮労働党独裁下の北朝鮮などを見ればわかるように、全体主義の下では、教育はもちろん文化すべてが権力による「やらせ」に包摂されるのである。いや人間の精神すべてが「やらせ」に飲み込まれるのである。タウン=ミーティングの100や200の「やらせ」など、米粒の100万分の1くらいのことにすぎない。だから、粛々と改正案を採決するのが全体主義者の正しい態度である。

もちろん、私たちの文化や精神--私たちの頭の中身--のありようを強制と支配のもとにおくことが、永続可能かどうかは別問題であるが。

<追記>ともかく強制と支配はいやだという意思表明をできるだけしたい(たとえば、次のブログの呼びかけなど参照)
議員会館の廊下から玄関にファクスがあふれ出るまで  [憲法・教育基本法]
教育基本法の改悪をとめよう!11・12全国集会
教育基本法、山場、FAXとメールを