美しい国2007年03月12日 22時30分07秒

 朝鮮・台湾の女性は、畏れおおくも天皇陛下の「赤子」であり、「日本臣民」であった。その女性たちはじめ、「八紘一宇」の「大東亜共栄圏」傘下の女性たちを、姓奴隷にした国家の有り様に恥じ入り、責めを痛感し、潔く責任を引き受けることができず、うじうじうじといつまでもおのれ可愛さに言い抜けることのみに専心する輩は、大和魂とも武士道精神とも無縁な、恥知らずでしかない。

 暴言と権力欲のうえに福祉・教育を荒廃させる極右政治家を知事の座から引きずり降ろそうと本気で考えることをしない「革新政党」やリベラル?な文化人たち。高度な政治的・文化的な計測をしろというのではない。単純な算術もできない(しようともしない)「指導者」たち。彼らにとっては庶民の苦しみや精神の圧迫など所詮、政治宣伝の材料でしかない。

 たしかに「美しい国」に日本はなっていくのかもしれない。しかし、こんな下劣でくだらない事につき合わされるのはまっぴ御免だ。

絶望的な状況2007年03月28日 23時41分28秒

 本当は「絶望的な状況」ではありません、たとえ極右ファシストが首長に再選されても。だいたい絶望も希望も虚妄なのだから。

 「左翼」だとか「革新」だとかを仕切る人々(一種の権力者、イデオロギー流通業者、つまり党派などの戦略・戦術を決めて、自分たちの正しさを宣伝している人たち)の実態が、いかなる代物なのかが明白になっていることの意味はあるとは思いますが、でも、現実の政治を左右するわけですからやはり「絶望的」な結果に一時的には結びついてしまいます。

 きちんと述べる力も余裕もないのですが、以下のようなブログを読む機会があり、何か哀しいというか、滑稽というか変な気分になりました。

ってなわけで、極端な話し、「浅野か石原か」の二者択一を迫られた場合、ボク的にどっち選ぶかって言うと、当然、石原なワケ。だって、浅野って、国に逆らえなさそーじゃん。浅野なんかが都知事になったら、せっかく東京都に金があんのに、国の方針どおり「福祉削減→大規模開発」に使いそう。その点、石原ならこのまま共産党都議団が石原いじめをし続ければ、少しはマシな政治しそうじゃない?
ってのはジョークだけど、とにかく、石原も浅野もどっちも「よりマシ」なんてことはなくて、両方ともサイテーなんで、今の政治がやだって人は、マンゾー候補に投票する以外に選択肢がないんですね。
ていうか、選択肢を示すのが政治ってもんだろーが!!
と思う今日この頃ですわ。
ブログ Weblog of ЗЧБ(三四郎日記)より
それから、
なぜ、あえて現職の再選という最悪の事態を招きかねない分裂行動に出ているのか。なぜ、正面の敵ではない浅野候補を主敵であるかのような言動にでているのか。そして、当選の可能性がまったく存在しないにもかかわらず、なぜ、独自候補での選挙戦をおこなうのか? 都知事選挙で言えば、前回の選挙では共産党候補者は34万票。その前は66万票。石原慎太郎は300万票とっているのだ。
・・(略)・・
そしてもうひとつ、選挙を経るということが、「組織固め」につながる。
運動員を動かすことで、そしてその運動員が人々に接触することで、組織が組織として機能するようになる。この組織を稼動する状態を維持するということのために、選挙という儀式を「目的」として設定する。
ブログですぺら より
 以上の、二つのブログは対照的ですが、ブログの中身について云々するつもりはありません。ただ、ここで書かれていることの背景にある現実が、結局、私が以前、ピンぼけの共産党による民主党批判の構図そのものなので、とりあげさせていただいた次第です。
 紋切り型の物言いですが、福祉を打ち切られて日々の生活を維持するためにのたうち回っている孤立した高齢者や、話しあってつくってきた式典や教育内容を全部圧殺する寒々とした現場で精神管理をされている生徒や教師たちのことは、どうでもよいことに結果的にはなってしまうという「党派性」は物悲しい滑稽さを漂わせています。

 だいたい<他党派や他候補がこんなにひどい>という「批判」の説得力があることと、現下の国家主義・反福祉推進勢力を下野させること=「結果を出すこと」との次元の違いに目をつぶるスコラ=空論がまかり通るのは、一体何なのでしょう?
 もちろん、かの「労働者の祖国」がナチスと手を組んでポーランド等を侵略した歴史を知っている私たちが、何も驚くことはないのはわかっています。でも、「一種の権力者、イデオロギー流通業者」の権力(権威?)は、古典的なスターリズムという括りをはみ出る、蛸壺的で自閉的な人と人との関係に成り立つ何物かなのではないかと思います。
 時間があればちゃんと書きたいのですが・・・。