米民主党大会を見て思ったこと2008年08月28日 18時24分18秒

伊藤和也さんの死が確認されうちのめされながら、アフガンの現状を(主に)つくり出した当事者のアメリカ合衆国で行われている民主党大会の様子をテレビで見た。

いつものことだが、大統領候補を決める党大会はお祭りだ。

日本ではどちらかといえば、中国共産党や朝鮮労働党の党大会と似たり寄ったりのことをやっている政党も残存しているが、それと対極にある。代議員たちが思い思いの格好で参加し、さまざまな声を張り上げ、時にはダンスをして、楽しみながらお祭り騒ぎをつくり出している。
そして、演壇で演説する政治家たち(労組の活動家などはCNNではカットされてコメントの時間になっていた)が分かりやすく、雄弁に話すということも印象的だ。
ヒラリー・クリントンも、ビル・クリントンも、ジョー・バイデンも、きちんと<伝える>ということを行い、会場はそれに呼応して盛りあがる。

例えば、ヒラリーは選挙戦であったシングル・マムや海兵隊員のことを具体的にあげておいて、そして支持者に、<みなさんは私のために闘ったのか、それともあの人たちのために闘ったのか>とたたみかける。聞いている人の心に響くだけではなく、テレビがどのフレーズをとりあげるのか、新聞がそれより長いその一節を引用するか、意識して演説をつくりあげている(ヒラリーの演説草稿は直前までオバマ陣営に渡さずぎりぎりまで練り直していたらしい)。

テレビではヒラリーの演説の表情まで事細かく分析され、その真意が論じられる。
Clinton's body language

政治家たちが家族に価値を置いていることもショーとして示される。(ミシェル・オバマやバイデンの息子が演壇に立ち、ヒラリーを紹介したのも娘。そしてオバマの叔父、バイデンの妻・子ども・孫等々が、紹介されたり、ステージにあがったり・・・バイデンが先妻と娘を交通事故で亡くしたエピソードは、会場から涙を誘う・・・)
もちろん、それぞれマケインや共和党のダメなところを、順番に訴えるようになっているので、おそらくコーディネートされているのだろう。

ショーがきちんとメッセージを運び、民主党にシンパシーをもっている人であれば、涙と感動だろう。
日本とは文化風土も社会の成り立ちも異なるのだから、比べても仕方ないのかもしれないが、彼我の違いがあまりにも大きい。
もはや日本も以心伝心の社会ではないことは明らかなのだから、社会を<変える>ことを本気で望む人々は、あのお祭り騒ぎの内実から学ぶべきものがあるのではないだろうか。
その点で、小泉純一郎元首相の手法は、確かにポピュリズムと批判されてしかるべき面はあったが、やはり今の社会に適したメッセージを伝えていたのだ。
日本的なコミュニケーションや文化を捨てる必要はないが、少なくとも、圧力団体や労組に基盤をおいた政治コミュニケーションは終わっていることは確かである。

アメリカ合衆国が移民社会だからこそ、言葉による説得と確認が必要だったのであり、また、家族の紐帯が特に重要視されるということだろう。日本の社会の成り立ちがそれとは異なることは自明だ。しかし、<モラルが低下し、日本の良さが失われた>と多くの日本人が感じている今だからこそ、政治を変えようという人々は、新しいスタイルのもとに<日本的な良さ>を再構築するというメッセージを伝えていかなければならないだろう。
そういう点で、中国共産党とあまり変わらない政治文化に浸っている保守・保身の政党には、まったく期待ができないのはもちろんだが、メッセージの伝え方が、きちんと未来の文化の方向を指し示していて信用できるようなあり方はないのだろうか。

アフガニスタンでの事件は、本当に気が滅入る。だかこそ、世界を変えなければならないのだが、それは本当に変えるということだ。次の総選挙で絶対に政権を変える。それができない国民ならもうおしまいだ。

PS. 福田首相はメルマガで次のように言っている。
NGOの一員として4年以上にわたって農業指導にたずさわり、現地の子 どもたちからも慕われていたという伊藤さん。自らの身の危険もかえりみず アフガニスタンの人たちのために努力してきた若い命を奪った非道な行為に 対して、本当に強い怒りを感じています。


よくぞ言った。では、その怒りに基づいて、何を具体的にするのか、ぜひそれを期待したい。そういう点では福田首相は小泉純一郎よりはずっとましなのだから。
また、天皇、皇后両陛下 コンサート鑑賞取りやめというニュースにも得心がいった。今上天皇の姿勢が明確に現れている。

8月の狂躁と福田首相のまともな言2008年08月15日 23時16分40秒

月遅れの盆休みで昼間からテレビをつけると、北京オリンピックを扱っているのはいいとして、その扱い方は、毎度のことならがら、あまりにも画一的でつまらない。

選手がメダルをとることをめざすのは当然だけれど、何でテレビ局員まで、それだけに一喜一憂しているのだろうか。選手の地元だとか出身校だとかで、一堂に会して応援する図を何回もやられるとさすがに嫌気がさす。真剣に応援している人々を利用して絵をつくるテレビ局の安易さと、応援する小学生くらいの子どもたちとほとんど同程度のテレビ局員の言動を見せられて、テレビのスイッチを切るしかないのが何とも言えない。

もう何回もいわれていることだけれど、日本以外の世界中の国々選手のすばらしいパフォーマンスや記録更新の場面はほとんど見ることはできない。日本の選手がメダルをとることがオリンピックのすべてであるかのような番組の作り方はいったい何なのだろう。「世界の若人の祭典」として純粋に、各国選手の手に汗握る苦闘を見た、あの昔のオリンピック中継はどこにいってしまったのだろうか。

8月15日の<終戦>記念日に関する報道がまたひどするぎる。たとえば、NHK総合の9時過ぎのニュースでは全国戦没者追悼式の天皇のことばは伝えたが、福田首相の式辞や河野衆院議長の追悼の辞については、まったく紹介すらしなかった。いったいどうなっているのだろう。
福田首相は次のようにまとまもなことを述べていた。これは、内外に対する重要なメッセージではないか。

今日、一部国際社会の情勢が不安定さをみせる中、一国だけの利益を追求しようとする風潮がないとは言えません。その中にあって、私たちは、内向きな志向の虜(とりこ)になることなく、心を開き、そのまなざしをしっかりと世界に向けながら、歩んでいきたいと思います。


また、河野議長も 「政府が特定の宗教によらない、すべての人が思いを一にして追悼できる施設の設置について真剣に検討を進めることが強く求められている」と大切なことを述べている。これを無視するのが「報道の自由」を担う公共放送局なのだろうか。

オリンピック開催国の中国では、外国メディアの「報道の自由」すら尊重しない政府が、国民の「表現の自由」をふくむ人権を抑圧し、行動を管理しており、本来のオリンピックの精神とまったく相反する事態が展開している。ふりかえって、日本のマスメディアは、自由を担う責任を十分に果たしているのだろうか。

オリンピック開催に合わせて軍事衝突を推進し、客観的には共犯関係のグルジアとロシアの(そして、その背後にいる当時国以外の)権力者たちによって、庶民はさんざんひどい目にあっている。その現実を伝えるべきメディアに必要なのは、狂躁ではなく、「批判精神」とまともな「理性」だろう。それらに欠けるから、オリンピック番組も薄っぺらで<感動>の減価を招いてしまうのではないか。

日本国憲法体制をどう評価するか2008年08月12日 22時27分32秒

日曜日の午前中に、サンデープロジェクトという番組で「秋葉原無差別殺傷事件と日本社会」と題して、櫻井よしこ・姜尚中・香山リカ・東浩紀の諸氏が議論していた。他のブログでも話題とされているようであるが、愚想を少し。

やはり、私にとってとても滑稽だったのは、櫻井よしこ氏が<今の憲法が家族ではなく個人、義務や責任ではなく権利・自由ばかりを強調していることに社会の病根があり、このような事件が起こるのだ>というような趣旨の発言をしていたこと。

「この人たちは、60年間オウムのように同じことをよくも繰り返せるものだなー。何とかの一つ覚えなどというが、そこまで徹せられるのは、さすがだなー」と感服するしかない代物だった。実際、この種の発言は、<革新の時代>だった60~70年代だって、ちょっと田舎に行けばよく保守オヤジがアルコールが入るとくだを巻いて言っていたことだ。

ただ、現在がちょっと特異なのは、朝日新聞が大株主でもあるテレビ朝日系列の番組で、元「左翼」司会者が、けしかけてそのような発言を堂々と日曜の午前中の番組でさせているという、滑稽を通り越して、日本の民度が如何ほどかを如実に示す状況に立ち至っているということである。しかも、このような、とりあえず<低レベル>というしかない発言について、姜尚中や東浩紀のような一応知性を持っている人が、正面からたしなめることだにしない(できない)という惨状なのである。

もちろん十年前なら、無教養なオヤジなどの、こういう低レベル発言は、<ハイハイ、ソウデスネー>とスルーしても全然問題ではなかった。しかし、ネットの世界をみれば分かるように、こうした発言が確実にリアルな力をもってしまうような、社会状況を勘案すれば、きちんとたしなめることくらいする必要がある。

市民的自由の裏には責任が張り付いていること、個人の尊厳に立脚した人権の普遍性があるからこそ他者の人権の尊重が必要になることは、社会科学的教養のイロハである。日本国憲法が立脚する近代社会の個人主義が前提されるからこそ、全体主義国家による拉致犯罪を許してはならず、薬害エイズや農薬入りギョウザ販売を徹底して追求しなければならず、無差別殺傷行為の責任主体を問うことになるのではないか!

憲法の改正は必要である。そのことと自由民主主義をあしざまに否定することとは全然レベルの違うことである。
憲法の自由や民主主義、人権や個人の尊厳という根本原理を、こうも低俗に貶める発言を<知識人ぽい人>してしまうという、超イデオロギー主義ultra-extremismが、未だに蔓延しているのが日本のマスメディアの実情というところなのだろう。いつまで冷戦思考の後遺症に浸って自己満足していたいのだろうか?

櫻井氏が、本当に人権思想・自由民主主義を否定し、全体主義を称揚したいなら、もう少し真正面からその原理に闘いを挑むべききなのだ。

だいたい、日本では、「ブルジョワ民主主義」に基づく日本国憲法を否定するべき左翼勢力が、なぜか「護憲派」になってしまうというおかしな事態が生じている。
左翼勢力こそ、<労働市場を自由化し、派遣社員の無権利状態をつくり出す、資本主義経済体制=日本国憲法体制こそ諸悪の根源である>と言って然るべきなのだが、櫻井氏たちはその代行をしてやっているということなのだろう。

滅びつつある日本社会2008年07月23日 22時21分12秒

<八王子殺傷>現場近くで包丁購入 「誰でもよかった」
と伝えられる、<八王子通り魔事件>についても、<秋葉原通り魔事件>と同様に、深い取材に基づいたジャーナリストのレポートを待ち望んでいる(そのようなジャーナリズムが今の日本に存在するかどうか心もとないが)。

ともかく、犠牲になった若い大学生が、未来に向けた日常を生きていられた様子をきくと、本当に暗澹たる気持ちになる。そして、怒りを感じずにはいられない。

紋切り型の物言いであるが、おそらく、中学時代から不登校に追い込まれ、孤立感と不遇感につかまってしまったのではないかと想像される容疑者のような人々が生み出されているのが、現在の日本社会なのではないか。

今の日本で起きていることは、凶暴性を潜在させている私たち人間を抑制するような<関係性>が機能不全に陥っているということなのだろう。日々の鬱陶しさについて愚痴る相手すらいなかったり、精神的に落ち込んでいるときに心配してくれる相手も見いだせなかったりする人間関係を生きている人々が増えているのだ。

今回のような<通り魔事件>に類似した事件や、未遂に終わった事件はあまたあり、私たちはそれらにほとんど慣れてしまっている。
そのことから、私が連想するのは、時々目にする電車の中で<危ない人>に遭遇した時に、多くの人が知らぬ顔をして目を伏せるあの光景だ。あるいは、公共の場で飲酒や喫煙をしている、明らかに未成年の集団を横目にして足早に通り過ぎる<社会人>たちの様子だ。

そして、大衆的に政治行動がほとんど起きないに等しい、不気味な日本社会の有り様だ。
たとえば、今日のニュースには、<セルビア>カラジッチ被告の支持者ら暴れる ベオグラードという報道があった。セルビアの右翼はこうして直接的に行動に出る。ところが日本のウヨクのほとんどは、ネットで罵詈雑言を浴びせることが行動だと思っている。(左翼もまったく同じだ。こちらはもっとひどくて業界としての儀式があるにすぎない)。

人と人とがぶつかり合わず、摩擦を避け、少数派を排除し、<ヘンな人>を圧殺し、言上をせず、同調したふりをし、利権を<権利>として絶叫するクレーマーとなる人々の群れ。<関係性>がずたずたになった、今の日本社会は滅びる方向に向かっている。

<人と人との関係の総体>としての社会関係の深部で起きていることと通底していない、<政治>や<経済>の議論は無力である。政権与党はもちろん、それを批判する政治勢力の人々も、どこまでその認識をもっているのだろうか。

ガイアの夜明け 絶望職場に光を2008年05月06日 23時04分49秒

テレビ東京で「ガイアの夜明け 絶望職場に光を!~働くものに明日はあるか・第2章」を見た。

ドキュメンタリーとしては、最上とはいえないかもしれないが、ここに出てくる人々の画面に現れない、葛藤や苦悩に思いをいたすことができた。

田原某を筆頭とする、メディアで大きな顔をして社会をあれこれ論じる連中には、この番組に登場するKDDIの国際オペレーターやガソリンスタンドの若者の言っていることは、わかるはずもないだろう。
格差や貧困という実態を指摘することが、資本主義を否定することだと思っている、洗脳された人々はまだまだこの社会ではメインストリームなのだ。

でも、御手洗某さんの会社がスポンサーで、天下の日経が「協力」を掲げる番組で、このような内容を制作・放映できる日本社会への愛国心(パトリオティズム)を再確認できたともいえる。
このクニの未来は、この現実と本当に格闘して、御手洗某をはじめとする優秀な経営者、洗脳に長けている御用評論家たちを圧倒する論理と倫理を、庶民が突きつけることができるかどうかにかかっている。

そして、結局、お前は何をしているのか!という問が戻ってくる。
今の私には、昨日の記事に載せた中島さんの歌を彼女/彼らに送るしかないが。

庶民性2008年05月06日 00時09分06秒

2008年の連休週間。国会ではガソリン税の暫定税率復活法案が、日本国憲法の規定に即して可決された。

そして、憲法記念日を迎えたけれど、それは私にとっては、ただの「黄金週間」の一日でしかない。せいぜい新聞の社説を読んだだけ。

4月末日の長い行列に加わる時間もなく、5月になってガソリンを満タンにして、高速道路を走る羽目になった。

チベットの人々の生活に何の関心もないくせに、大騒ぎをしている日本メディアの欺瞞につき合う必要もないけれど、所詮、立憲制が担保れていない国家と、立憲制を空洞化させつつある国家の「外交」に期待などできるはずもない。

オタクと買い物客と外国人がごった返す秋葉原で買い物をしてきたが、東京の街は、モノと時間を消費する人々の、日常的な休日がゆっくりと進行していた。



ここまで来た政治の劣化2007年11月06日 23時07分48秒

先週以来の自民・民主の「大連立」騒ぎだとか、民主党の小沢辞任会見と「元に戻ってきて」騒ぎだとか、あきれて果てて、日本国民であることが悲しくなってきた。

この「選良」たちは、一応、議会制民主主義の原則を知っているはずだ。原則は日本では「タテマエ」に転化するするが、それでも「タテマエ」をすべて忘れてしまったら、欲望から発する直接的情動に堕してしまう。

「大勲位」だとか元ニッキョーのマスコミのドンだとか、もともと「タテマエ」の裏側での蠢きを糧にしている連中と、同じレベルに堕してしまって、何がマニュフェストだ。何が市民の政治だ。生活第一だ。

おそらく、私たち庶民の仕事や生活の場での政治も、きっとこういう惨状を呈しているのだろう。私たちの反映が、この騒ぎというわけなのだろう。あまりに悲惨である。