日本はやはり全体主義社会か?駒大苫小牧高野球部辞退 ― 2006年03月04日 23時08分55秒
第78回選抜高校野球大会の出場を駒大苫小牧高が辞退したという。
本来、一私立高校の一部活動が、ある大会の出場を辞退したなどということは日常茶飯事だし、外部のものがとやかくいうことではない。
しかし、現実には、「高校野球」というのは、一「部活」の問題ではなくなってしまう。学校教育における「特別活動」の一分野に過ぎない部活動の、そのまた一競技に過ぎないものが「特別扱い」されることで、どのような歪みをもたらしているかは、まともにモノを考えられる人にとっては自明だろうが、ここではひとまずおいておこう。
ともかく、こうした問題で私が痛感するのは、日本の社会では、個人の責任の前提となる、倫理や道徳がまったく根付いていない、ズブズブのケジメのない社会であるということだ(societyとしての「社会」と言えるのかどうかもわからないが)。
言うまでもないが、未成年者の喫煙や飲酒が禁止され、未成年者と知ってタバコ・アルコールを販売した者は処罰されるわけだ。まず、それに関わって、問題はどうなのかが問われなければならない。子どもでも知っていることだが、タバコとアルコールは成人には許されている。しかし、未成年者には健康被害がより大きく、また社会として保護する対象であるから、禁止しているわけだ。
飲酒・喫煙をした未成年者自身は、自分たち自身の身体に害を加える自傷行為の意味を自覚し、その行動を反省する責任はある。また、そのレベルでは、その親権と養育義務を負う保護者の責任が問われることになる。これはもちろん、法的にな責任ではない。
そして、この未成年者たちの教育の一端を担った学校やその学校の教員たちが、教育上の責任を感じて、その教育のあり方がどうだったのかを、真摯に反省することはよいことだ。いわゆる喫煙・アルコール教育のプログラムがどうであったのかを問い直すことが求められるかもしれない。
しかし、学校は高校生達の全生活に管理責任をもっているわけではない。高校に入学・在籍したからといって、高校生が個人の全生活と精神すべてを、学校や教員のコントロール下に置くなどという契約を結んでいるわけではない。
学生のすべてに対して責任をもてるということは、逆に言えば、保護者を差し置いて、学校・教員の「分際で」、学生の全人格をまるごと(校外でも家庭でも)管理・指導しているという関係にあるということでなければならない。
そのような、学校に所属する学生個々人の、人格まるごとのトータルなコントロールを是認する、全体主義的な集団帰属関係が前提になければ、ある高校の学生が引き起こした、自傷行為(喫煙・飲酒)の責任を学校が無前提に引き受けるなどという倒錯は生じないはずだ。
しかし、ご存知のように、この倒錯はこれにとどまらない。「昨年、あれだけ世間を騒がせた。言い訳はできない」という論理にもならない、情緒的な「説明」によって、喫煙・飲酒とは直接関係ない、野球部全体の大会参加辞退が決定されるというわけなのだ。
そこにあるのは、「連帯責任」という名の「無責任の体系」そのものである。少なくとも、(元)野球部員の一部が引き起こした法に触れる自傷行為が、野球部全体が大会参加辞退という形でペナルティ=罰を受けなければならないものなら、その自傷行為と野球部の活動との関係性を説明する「責任」が学校当局にはあるだろう。ところが、「昨年、あれだけ世間を騒がせた。言い訳はできない」などという辞職するという校長の言葉が伝えられるのみである。
結局、そこには個人と集団との帰属と自立の緊張感もなければ、透明な説明もルールもない。「責任」という名に隠れた、集団主義的・全体主義的情緒があるだけだ。
社会の網の目の中で、各人がどのような意味で責任をとり、どのような論理と説明のもとに、ルールをつくり適用するのかという、「社会」形成がそもそもできないような、ケジメのなりあり方が、情緒的な賞賛(たとえば小泉劇場)とバッシング(たとえばイラクでの誘拐被害者への「自己責任」追及)をくり返していく。最近の、ライブドア・メールでの永田議員や民主党指導部の「責任追及」が一転して「全面降伏」へと反転していくのも、根は同じだろう。
北朝鮮や中国の政府の不法行為をとりあげて、朝鮮人・中国人全体を敵視する連中のアホ・ナショナリズムも同根だ。
学校のような部分社会であれ、国家全体であれ、このような全体主義的な無責任の体系を克服していきたいものだ。
本来、一私立高校の一部活動が、ある大会の出場を辞退したなどということは日常茶飯事だし、外部のものがとやかくいうことではない。
しかし、現実には、「高校野球」というのは、一「部活」の問題ではなくなってしまう。学校教育における「特別活動」の一分野に過ぎない部活動の、そのまた一競技に過ぎないものが「特別扱い」されることで、どのような歪みをもたらしているかは、まともにモノを考えられる人にとっては自明だろうが、ここではひとまずおいておこう。
ともかく、こうした問題で私が痛感するのは、日本の社会では、個人の責任の前提となる、倫理や道徳がまったく根付いていない、ズブズブのケジメのない社会であるということだ(societyとしての「社会」と言えるのかどうかもわからないが)。
言うまでもないが、未成年者の喫煙や飲酒が禁止され、未成年者と知ってタバコ・アルコールを販売した者は処罰されるわけだ。まず、それに関わって、問題はどうなのかが問われなければならない。子どもでも知っていることだが、タバコとアルコールは成人には許されている。しかし、未成年者には健康被害がより大きく、また社会として保護する対象であるから、禁止しているわけだ。
飲酒・喫煙をした未成年者自身は、自分たち自身の身体に害を加える自傷行為の意味を自覚し、その行動を反省する責任はある。また、そのレベルでは、その親権と養育義務を負う保護者の責任が問われることになる。これはもちろん、法的にな責任ではない。
そして、この未成年者たちの教育の一端を担った学校やその学校の教員たちが、教育上の責任を感じて、その教育のあり方がどうだったのかを、真摯に反省することはよいことだ。いわゆる喫煙・アルコール教育のプログラムがどうであったのかを問い直すことが求められるかもしれない。
しかし、学校は高校生達の全生活に管理責任をもっているわけではない。高校に入学・在籍したからといって、高校生が個人の全生活と精神すべてを、学校や教員のコントロール下に置くなどという契約を結んでいるわけではない。
学生のすべてに対して責任をもてるということは、逆に言えば、保護者を差し置いて、学校・教員の「分際で」、学生の全人格をまるごと(校外でも家庭でも)管理・指導しているという関係にあるということでなければならない。
そのような、学校に所属する学生個々人の、人格まるごとのトータルなコントロールを是認する、全体主義的な集団帰属関係が前提になければ、ある高校の学生が引き起こした、自傷行為(喫煙・飲酒)の責任を学校が無前提に引き受けるなどという倒錯は生じないはずだ。
しかし、ご存知のように、この倒錯はこれにとどまらない。「昨年、あれだけ世間を騒がせた。言い訳はできない」という論理にもならない、情緒的な「説明」によって、喫煙・飲酒とは直接関係ない、野球部全体の大会参加辞退が決定されるというわけなのだ。
そこにあるのは、「連帯責任」という名の「無責任の体系」そのものである。少なくとも、(元)野球部員の一部が引き起こした法に触れる自傷行為が、野球部全体が大会参加辞退という形でペナルティ=罰を受けなければならないものなら、その自傷行為と野球部の活動との関係性を説明する「責任」が学校当局にはあるだろう。ところが、「昨年、あれだけ世間を騒がせた。言い訳はできない」などという辞職するという校長の言葉が伝えられるのみである。
結局、そこには個人と集団との帰属と自立の緊張感もなければ、透明な説明もルールもない。「責任」という名に隠れた、集団主義的・全体主義的情緒があるだけだ。
社会の網の目の中で、各人がどのような意味で責任をとり、どのような論理と説明のもとに、ルールをつくり適用するのかという、「社会」形成がそもそもできないような、ケジメのなりあり方が、情緒的な賞賛(たとえば小泉劇場)とバッシング(たとえばイラクでの誘拐被害者への「自己責任」追及)をくり返していく。最近の、ライブドア・メールでの永田議員や民主党指導部の「責任追及」が一転して「全面降伏」へと反転していくのも、根は同じだろう。
北朝鮮や中国の政府の不法行為をとりあげて、朝鮮人・中国人全体を敵視する連中のアホ・ナショナリズムも同根だ。
学校のような部分社会であれ、国家全体であれ、このような全体主義的な無責任の体系を克服していきたいものだ。
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