憲法記念日に2007年05月04日 22時21分11秒

 60年目の憲法記念日を迎えました。
 フランスの大統領選挙も、極右政治家を都知事にすることを許した日本と同じ結果になるのでしょうか。
 世界全体が危機的なのだから、私自身の周りがそれに無縁でいられるわけはないと、改めて自分に言い聞かせたりしています。
 
 危機感のない脳天気な言葉をメーデー会場で吐いている「政治家」の言葉を読んで、この連中は心底「憲法改悪を阻止しよう」と考えていないことに、吹き出すしかない気持ちになりました。
 安倍氏をはじめ憲法を「改正」(改悪)しようとする人々は本気なのに、都知事に右翼政治家が再選されても危機感をもたずに「護憲」だとかほざいている勢力の指導者たちの脳天気さ!

 国民投票法案を阻止すること(通ってもそれをすぐに改正させること)、憲法改悪の発議を阻止して、実りある憲法(改正)議論を発展させること、そのためには、絶対に参院選で与党を敗北させなければなりません。その展望を提起できない指導者たちにすぐに退場いただくしかありません。

 ところで、「新憲法制定促進委員会準備会」の「新憲法大綱案」などの「改正案」が発表されたようですが、まだネットでも読めないようです。
 「大綱案」では「国家の主権、独立および名誉を護持し、国民の生命・自由・財産を保全することが国家の最重要の役割」という「国益条項」があるそうです。http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/dompolicy/50146 <生命・自由・財産という基本的人権(自然権)を保全することが国家の目的だ>という社会契約説以来のデモクラシーの理念が、国家主義へと歪曲されているようです。ジョン・ロック先生も憤慨するにちがいありません。
  また、はやり「国防」を「国民の義務」と規定したいようですが、守るべき<国家>が自由民主主義から乖離していそうです。
 私は、国民の人権を保障するために存立する国家の主権を防衛する義務が国民にあるとする理念自体には賛成です。現憲法においてもそのような理念は前提されているでしょう。それは、同時に抵抗権・革命権と不即不離です。そのことと、国家が国民の人権を恣意的に抑制できるようにすることとは、まったく違います。
 「国防」というとき、何を防衛するのかを曖昧にするわけにはいきません。

フランスでサルコジがやはり勝利2007年05月07日 22時13分53秒

 今朝、連休を終えて日常に復帰するブルーな気分を増してくれる、テレビのニュースでサルコジ氏が勝利したという声が聞こえてきました。

 予想していたとはいえ、この世界の流れは当分続くことを再確認させられました。
 昨年の米中間選挙は、ブッシュのお粗末ぶりの結果に過ぎないのだから、グローバリゼーションのもと、新自由主義的傾向は、まだまだ広がるということなのでしょう。
 サルコジ当選で、フランス各地では若者の一部が警官隊と衝突したようですが、石原が勝っても何も起こらない日本とは随分違いますね。街頭で暴れるなんて、とんでもなくアホで幼稚だけれど、日本のような不感症はもっと不気味だよっていう気がします。
 フランスの大統領選前半に関して、草加耕助さんの「旗旗」ロワイヤルを支持するしかない左派の惨状 - 仏大統領選に思うの記事とそこのリンクがとても参考になりました。

 それから、この間のイギリスの地方選挙でも労働党が退潮し、保守党が伸びました。その中で、特にスコットランド議会選挙でナショナリスト(国民党)が労働党を上回ったといういうので、「ああ、ここでもか」という気がしていました。私は、国民党はフォルツァ・イタリアみたいな政党だろうと勝手に思っていたのですが、そうではないようです。その「核兵器からの離脱」政策のことは、yamamotoさんのブログ「ペガサス・ブログ版」スコットランド議会選挙で反トライデント派が第一党の記事で知りました。

 連休中、各地にショッピング・モールができているのに遭遇しましたが、結構そこそこ楽しめます。極端に言うと、消費者としては、新自由主義の成果を享受しているってことでしょう。

私は本当に憲法改悪を止めたいと思っているのだろうか?2007年05月12日 23時46分20秒

 国民投票法案が、民主党の底抜け間抜けふがいなさに助けられて、週明けにも成立しようとしています。

 私は、そもそも国民投票法にも、憲法改正にも賛成です。

 しかし、安倍政権と反動勢力=戦後自由民主主義体制への反逆勢力が進めている、欠陥国民投票法案も、憲法改悪も、賛成できません。個人の自由と責任の上に築かれるデモクラシーが浸食されて、<国家のために>という美名の下に、利権と暴力がまかり通る無法国家にされたら、たまりません。

でも、疲れ切って家に帰るだけの日々で、何もできていません。憲法改悪を本当に私は止めたいと思っているのか?自問せざるをえません。

 私は、このブログで書いてきたように、(主観的には改憲阻止を唱えているけれど)憲法改悪を阻止する有効な行動をとらずプログラムをもたない、政党指導者などの<「左翼」だとか「革新」だとかを仕切る人々>をまったく信用していません。そういう人々が憲法改悪を阻止してくれるなんていう話しはあり得ないと思っています。

 でも、そういう自分が何もしないというのでは、「左翼」や「革新」を批判する資格もないでしょう。・・・いや、<資格>はなくても別に良いのですが、改悪されたら困るのは私です。

 困ったものです。

 毎日、地道にビラを配ったり、国会に駆けつけている人には敬意を表します。でも、そういう人は少ないですね。やはりみんな忙しいし、そこまで盛りあがらない。

 FAXやメールを送ったりはできるのですが(民主党に送るのは間に合わなかった)、本当は「左翼」や「革新」とは関係ない、もっと新しいネットワークがあって、簡単にできるアクションをみんなでつくっていけると良いのですが・・・。

 それに、資金を集めて、たとえば広告やCMだって、つくれればと思います。
 そういう準備をしている人やグループもあるとは思うのですが・・・・。

 それから、私の若い頃とまったく同じような、のぼり・旗をたてて、変なリズムと調子のシュプレヒコールをするのも、悪くないし、それがアピールする層も数%はいると思うのですが、そういうスタイルに<引いてしまう>人はその数十倍いるのではないでしょうか。

 企業の広告・CMはプロが仕事で作っているので、それのレベルに達することは不可能でしょうが、アピールしてメッセージが伝わるように、計算するということをなぜ「左翼」や「革新」の人々はしないのでしょうか。
 まあ、私も人のことは言えないのですが(笑)。

 たとえば、こういうビデオと、そのネットワークみたいなものを作れば良いのかもしれません(憲法改悪反対をテーマにして)。



victorintheworldさんの次のようなレスポンスも素晴らしいです。 第三次世界大戦は必要がない!!!-Re: We Don't Need World War 3!!!

「へんな改憲手続き法の歌」2007年05月13日 22時12分53秒

草加耕助さんのブログ「旗旗派」で「へんな改憲手続き法の歌」というのを知りました。( 「改憲手続法のムービーを作成しました」
GOOD JOB!

そういえば、そのSMAPの作曲家でもあるZAKIさんが、この法案の問題点を歌にした、「”へんな改憲手続法”の歌」を無料で配信しておられました。そこでこれに漫画家の一花花さんの風刺画などをつけたムービーを制作して、YouTubeにアップしてみました。この問題について取り上げる予定のある方は、法案の問題点をわかりやすく理解してもらうために、ご自身のサイトやブログなどに貼り付けて使っていただければ幸いです。

とのことですので、とりあえず貼り付けさせていただきます。
すでに多くのブログでも紹介されていたようですが、zakiさんの車での都内街宣敢行中! にも感動しました。

「旗旗」へのTBやコメントがうまくいかないようなので、この場を借りて、草加耕助さんにお礼を申し上げます(仏大統領選の記事も勉強になりました)。

許せない暴力(バイクのメット入れに赤ちゃん!等)2007年05月19日 23時28分26秒

 以下のような、ニュースが連日伝えられて、こういう所業をする連中にはらわたが煮えくりかえる思いです。そして、ひどく気分が悪くなります。
<能勢男児遺体>抱けないのでメットインに入れた 夫婦供述 5月17日11時21分配信 毎日新聞

ステーキ店「ペッパーランチ」店長ら女性客を拉致、乱暴 5月17日8時0分配信 産経新聞
 上の1歳のわが子にこういう所業をしたという供述自体が虚偽の可能性が高いようですが、このような一方的な暴力を(あまり過度の暴力とは意識せずに?)行える人間のありように、暗い闇を感じずにはいられません。

 この種の犯罪に対して、厳罰を科すことは当然です。そして、その罰は本当の意味で更正や反省を容赦なく迫るものでなくてはいけないはずです。さらに、それだけではなく、その暴力的人格を形成したものは何か、徹底した解明がなされるべきでしょう。
 こうした人々を生み出した教育の過程に<暴力>が埋め込まれていた可能性が高いと思いますが、たとえば家庭や学校のどこに問題があったのか、この連中に関わった教育関係者は自己検証を行うべきだし、社会としても真剣なメスを入れるべきではないでしょうか。

 人間の尊厳を踏みにじる暴力をけっして放置しない、許さない社会にしていくために、社会はもっと資源を配分するべきです。警察・司法・刑務所などに、もっと予算を使い、人員も配置するべきでしょう。さらに、家庭や学校や社会にある暴力の芽を抑えていくためには、今ある警察・司法、あるいはメディアだけでは不十分でしょう。イデオロギーやシェーマにとらわれた学者先生ではなく、現実に向き合い、ケーススタディをきちんと行える専門家によって、暴力を予防・抑制する方策を研究・開発し、<改革>に結実させていくことが必要だと思います。
 日本の社会は、商品やサービスの研究開発にかなりの資源を配分して、成功させてきているのだから、社会を支える<ヒューマン・リレーション>や<ヒューマン・リソース>の分野でできないはずはありません。
 具体的な努力を放棄して、それ自体暴力性を内包した、国家主義による「教育再生」というイデオロギー注入をしても、事態を悪化させることはあっても改善することなどはありません。
 安倍政権がやろとしていることは、基本的に徳目注入や精神主義ですから、現代社会では有効とは思えません。
 ただし、それが<有効>に見える人々が増えると、一面では<有効>になってしまい、さらに問題が潜在化して爆発する方向にむかうというやっかいな事態になってしまうのでしょうけれど。

『滝山コミューン1974』2007年05月27日 13時27分34秒

 『赤旗』と『朝日新聞』の情勢分析を読んで、私は共産党38議席を予想していたことを思い出しました。1972年12月の総選挙のことです。
 この本『滝山コミューン一九七四』は、私を1970代にタイムスリップさせてくれました。
 私は、中学生で、その年頃にありがちな傾向もあって、衆議院全選挙区の星取り予想を新聞に書き入れ、周囲の大人が「そこまでいかないよ」と反応していたのに、結果として「革新共同」も含めて共産党が40議席に達したので誇らしかったという、くだらないことを突如思い出したわけです。

 著者の原武史氏は、当時の具体的な社会状況をご自身の体験に基づいて描いていきます。当時の小学生だった著者よりは、私は少し上であったけれど、同じ衆議院選挙区に居住し、同じように「民主教育」の影響力が強かった公立義務教育を受けていた者にとっては、あまりにもリアルな出来事が本書では展開されています。

 だから、この本を読んで、多くのことを突きつけられました。あれから30年以上経て、考えなければならない多くの課題を。

 たとえば、あの頃、「憲法を暮らしに生かす」というスローガンがありました。革新自治体が簇生する状況の中で、多くの人々が「平和と民主主義」を自らの生活に結びつけて、考え行動したわけです。
   しかし、同時に、本書で描かれているように、まさにその「憲法を暮らしに生かす」運動潮流自体に中に、個を圧し殺してしまう要素が胚胎されていました。
 そのことと、安倍政権のもとで憲法の精神自体を圧し殺そうとする動きとは、直結するわけではありませんが、多くの伏流として歴史の重層の中に入り込み、現在の<危機>を形成する要因となっていることも事実だと思うのです。
 本書でも、著書は「君が代」斉唱が強制される、今の学校現場の現実を想起しながら、「民主教育」が行った同様のことがらを(こう書いてしまうと抽象的なので、この本を読んでいただくしかないのだが)、抉り出しています。

 また、自分の職場など周囲で、個人を圧し殺すようなことが起きたとき、反射的にそれに抵抗するようになることが大事だという(表現は不正確)、鶴見俊輔が強調していたことも思い出しました。この本で原武史少年は、周囲が目を輝かせて「コミューン」に飲み込まれていくのに、それに対する違和感・抵抗感を失うことはありませんでした。

   個人的にも、私は小学校からの教育の中で、「君が代」を強制的に歌わされたことはありません。その事はとても良かったと思います。同時に、本書で描かれているような学習や生活をめぐる、「班競争」の活動を(多少薄められた形だったとは思いますが)経験したことを思い出しました。そして「班長」が「班員」を選ぶという行為を私は「班長」として嬉々としてやっていたことを思いだし、非常に暗い気分になりました。
 もちろん、私の「民主教育」経験は、おそらく、あの民間教育研究団体の直接的影響力がそれほど強くなかったからか、「滝山コミューン」ほどではなかったのではないかと思います。
 だからか、小学生の時から『赤旗』を読み、その非デモクラット的要素について、それなりに言語を通して感受していたはずなのに、「平和と民主主義」潮流の中に、全体主義の要素が確固として根付いていることに自覚的になったのは、かなり後になってからでした。

 この本の帯には「2007年、今の「日本」は、1974年の日常の中から始まった。」とあります。私は、最初非常に違和感を感じましたが、いろいろ考えると、それは間違ってはいないというふうにも思います。
 つまり、「憲法を暮らしに生かす」というスローガンが無力になり陳腐になったのは、「平和と民主主義」潮流自体の中に、そうのようにしてしまう体質があったことが小さくはないし、また、現在もそれは克服はされていないと思うからです。
 軍国主義や国家主義に反対していると思っている「護憲派」の人に、特に70年代を知っている世代には読んでほしい本です。