8月の狂躁と福田首相のまともな言2008年08月15日 23時16分40秒

月遅れの盆休みで昼間からテレビをつけると、北京オリンピックを扱っているのはいいとして、その扱い方は、毎度のことならがら、あまりにも画一的でつまらない。

選手がメダルをとることをめざすのは当然だけれど、何でテレビ局員まで、それだけに一喜一憂しているのだろうか。選手の地元だとか出身校だとかで、一堂に会して応援する図を何回もやられるとさすがに嫌気がさす。真剣に応援している人々を利用して絵をつくるテレビ局の安易さと、応援する小学生くらいの子どもたちとほとんど同程度のテレビ局員の言動を見せられて、テレビのスイッチを切るしかないのが何とも言えない。

もう何回もいわれていることだけれど、日本以外の世界中の国々選手のすばらしいパフォーマンスや記録更新の場面はほとんど見ることはできない。日本の選手がメダルをとることがオリンピックのすべてであるかのような番組の作り方はいったい何なのだろう。「世界の若人の祭典」として純粋に、各国選手の手に汗握る苦闘を見た、あの昔のオリンピック中継はどこにいってしまったのだろうか。

8月15日の<終戦>記念日に関する報道がまたひどするぎる。たとえば、NHK総合の9時過ぎのニュースでは全国戦没者追悼式の天皇のことばは伝えたが、福田首相の式辞や河野衆院議長の追悼の辞については、まったく紹介すらしなかった。いったいどうなっているのだろう。
福田首相は次のようにまとまもなことを述べていた。これは、内外に対する重要なメッセージではないか。

今日、一部国際社会の情勢が不安定さをみせる中、一国だけの利益を追求しようとする風潮がないとは言えません。その中にあって、私たちは、内向きな志向の虜(とりこ)になることなく、心を開き、そのまなざしをしっかりと世界に向けながら、歩んでいきたいと思います。


また、河野議長も 「政府が特定の宗教によらない、すべての人が思いを一にして追悼できる施設の設置について真剣に検討を進めることが強く求められている」と大切なことを述べている。これを無視するのが「報道の自由」を担う公共放送局なのだろうか。

オリンピック開催国の中国では、外国メディアの「報道の自由」すら尊重しない政府が、国民の「表現の自由」をふくむ人権を抑圧し、行動を管理しており、本来のオリンピックの精神とまったく相反する事態が展開している。ふりかえって、日本のマスメディアは、自由を担う責任を十分に果たしているのだろうか。

オリンピック開催に合わせて軍事衝突を推進し、客観的には共犯関係のグルジアとロシアの(そして、その背後にいる当時国以外の)権力者たちによって、庶民はさんざんひどい目にあっている。その現実を伝えるべきメディアに必要なのは、狂躁ではなく、「批判精神」とまともな「理性」だろう。それらに欠けるから、オリンピック番組も薄っぺらで<感動>の減価を招いてしまうのではないか。