「オカネの危うさ」実感させたが・・・2006年03月30日 00時14分38秒

NTTデータのセキュリティの責任者が銀行のコンピューターシステムから顧客データを持ち出し、偽造カードで現金を引き出した事件で、容疑者が逮捕されたという。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060329-00000206-kyodo-soci

現在、多くの金融機関がインターネットを通して、オンラインでの取引ができるようになっている。それどころか、マイクロソフトのMoneyのようなソフトウェアや、特定金融機関のネットバンキングによるサービスによって、個人の全資産を管理できるようなサービスまでやっている。

そこでは、「暗号化されセキュリティが安全に管理されている」といううたい文句のもとに、個人のIDや暗証番号までサーバーに保存する場合が多い。その恐ろしさを今回の事件は見せつけてしまった。

いくら技術的にセキュリティがかけられていても、人間が情報を管理する以上、今回のような事件が起きる危険性を完全に排除できるのかという疑念が生まれるからだ。

しかし、日頃から感じているのことは、<現在の「経済の血液」にまつわる状況というのは、私たち個々人のあり方を反映もしているし、逆に規定もしている>ということだ。

そもそも、現在の「高度情報化社会」のもとでは、通貨=オカネ(money)が、単なるデジタル情報にまでなってしまった。かつて、マルクスが『資本論』で貨幣の呪物的性格を論じたが、その物象化が「モノ」を乗り越えて極限まで進んだのが、今の社会だろう。

マルクスの時代は、まだ貴金属としての金が「価値のあるモノ」として機能していたのだけれど、今や、オカネそれ自体はデジタル記号でよい。マルクスがオカネが転化した資本を関係として見たように、オカネも人と人との関係から生じる媒介者だ。

それは、現在では皆が信認していますよということの上に、預金通貨や各種信用(クレジット)というオカネのシステムが成り立っているという形となっている。オカネの信認は、国家がバックにあることが条件ではあるけれど、皆の信認(信用)を失ったら、おしまいなのだ。

今回の事件は、組織面で、実はセキュリティがなっていなかったという面が大きいだろう。しかし、技術の面でも、組織の面でも、システムが高度化と、その脆弱性(「セキュリティ・ホール」)とのいたちごっこは続く。

そして、セキュリティを高めることが、実はオカネ・システムを支えている、私たち個人への負荷を高めることにも帰結していく。それは「自己責任」という今のところ呼ばれたりしている。
「便利なオンライン・サービスを受けるのだから、責任もってくださいね」とか、「今は、オカネを盗る泥棒に気をつけるだけでは済みませんよ」というのは、始まりの段階に過ぎない。

オカネがデジタル情報になっていくにつれて、私たち個人の財布が情報データ・ウォレットになり、その情報が管理されていく。さらに、私たちの行動自体が、システムに把握され管理されていくことになる。

オカネの問題は、会社の組織(と技術)だけではなく、社会全体の組織(システム)と技術の問題につながっている。

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