過激派が時流をつくる日本2006年05月08日 23時29分31秒

 「昔は少しでも違う意見を言うと<非国民>と罵声を浴びせられてひどい時代だったんだよ。今は自由な世の中になって本当に良かったね」と、上の世代に言われて育ってきたのに、いつのまにやら、「<非国民>と罵声を浴びせられる時代」になっていた。

 こういう罵声と恫喝で、人を萎縮させ、異論を封じるやり口は、全体主義運動の典型なのだが、それは、多くの場合、<正義>と<改革>を旗印とする過激派として現れる。

 たとえばこういうことがあった。
 幕末の孝明天皇は、青年天皇として、確かに非現実的な<攘夷>主義者として出発したが、尊王攘夷の過激派を嫌い、幕府に政治を委任する伝統を守ろうとする穏健な人だった。彼がもっとも信頼したのは、会津の松平容保だ。
 しかし、さまざまな紆余曲折と偶然を経て、過激な倒幕主義者が、雄藩の権力を握ることができ、朝廷を動かし、敵失を生かし、戊辰戦争を挑発して、<倒幕>という果実を得ることができた。彼らは、たとえば大久保・木戸らは、確かに、過激テロリストよりは情勢分析ができる政治家であったが、しかし、やはり<過激派>(の末裔)ではなかったか。

 彼らはあたかも<倒幕>が理性的・計画的な運動の結果であるかのように描き出した。そして、天皇の信頼を得た会津を容赦しなかった。天皇の意思に反した自分たちの姿を隠蔽するためにも。
 さらに言えば、暴力と挑発によって政治的目的を達成する<過激派>が権力を握ったからこそ、明治以降の政府の政治展開には、常に過激派政治的な側面があったのではないか。内外で彼らが常に追求した、暴力と謀略は、時代の制約であったといえるにしても、それだけではない。

 大衆的にも、その後、過激派のメンタリティは、昭和維新を叫んだファシストたち、戦後民主主義の虚妄を呼号した全共闘、さらに今日の雑多なナショナリストたち(TV評論家からネットウヨまで)に受けつがれた。

 複眼的な視点、冷静な議論と思考実験、それに基づく現実的な改革こそ自由民主主義には似つかわしい。「この非国民め」「護憲は反日」などという罵倒が集団ヒステリーをつくり、理性を奉じる者もいつのまにか、その雰囲気に抗すことができなくなる。
 暴力への衝動と、集団催眠的な浮遊が、今の日本をおおいつつある。その先にあるのは、祝祭的な戦争であろうか。

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