前原誠司氏(たち)のピントはずれ2005年09月16日 22時14分16秒

 民主党の代表選は <民主代表選>菅、前原両氏の一騎打ちに 小沢氏は不出馬 となってきました。

さてこの前原氏の若さ(って言っても40代ですが)には、別に文句はないけれど、メディア得意の世代論は永田町世界では意味があっても、国民にとっては無意味です。

松下政経塾出身者にありがちなのですが、西原氏も「我々はバランス感覚のある世代」と言ってます。世代で自己規定しそれをアイデンティティにする傾向は私はうさんくさく思ってしまいます。

まあ、世代論はどうでもいいとしましょう。

何より、今回の総選挙後に彼が強調していることは、全然ダメだと思います。

「労組との関係については「意見が違えば、違う行動を取るのは当然だ。そこが、民主党の戦う姿勢が足りかったところだ」」

というのです。

これはまさに小泉氏による、「民主党は労組の既得権益を守るために郵政民営化に反対している」という攻撃は理があったと受容することを意味するわけです。つまり、小泉の「郵政公務員(労働者)は特権階級」という詐術を認めるということになります。

一般論として、労働組合と政党の立場は違い、政党が労組の利害を超えた政策を選択する必要があることは、誰も否定しないでしょう。しかし、この小泉ポピュリスト・デマゴギー・嘘八百・茶番劇場の総選挙の直後に、民主党にその総括が求められている局面での代表選挙で、西原氏がそのことを強調するというのは、どういうことでしょうか。

民主党の「若手」の一人玄葉光一郎選対委員長は、朝日ニュースターの「ニュースの深層」(;9/15)で、同じことを敗因として強調していました。そして、キャスターの葉千栄さんに、「じゃあ民主党は自民党と何が違うんですか」と聞かれて、「体質が違います」と言っていました。「体質だけかよ」と私はそれを見て爆笑してしまいましたが、この民主党「若手」組は、自民党の小泉がやったことこそ本家民主党がやるべきことだった、とでも思っているのでしょう。

そんな認識では100年経っても、小泉(的)自民党に勝てるわけはありません。

 「政官財癒着」に象徴される、利益誘導の保守政治に対決して、透明な政治過程や市場秩序をつくるという、「若手」組も共有する民主党の理念があったはずです。ところが、小泉(的)自民党は、おそらくここ10年以上進んできた新自由主義政党化の最終局面に至った。だから、利益誘導型の古い保守政治を自ら攻撃することで勝利した。であれば、新自由主義の理念とは異なる、透明な市場経済秩序・政治構造の理念を示すしか道はないのです。そうでなければ、「体質の違い」程度の差異を売り込む自民党別働隊か、自民党内の一派閥(政策集団)になるしかないでしょう。

私は、民主党が昔の社会党のように、労組に依存した政党になれというようなアホなことを主張するつもりはまったくありません。また、「大きな政府」を前提とした福祉国家路線も破綻しています。だからと言って、一般公務員と高級官僚を同一視する小泉新自由主義イデオロギーに屈服して、フリーターの若者や、保育・教育・不正規雇用などで生活を背負う女性を振り向かせることなどできるはずないのです。

 <これは、付け足し>:彼は、大東亜侵略戦争を「近代の超克」「世界史的立場」から意義づけた京都学派の高坂正顕の息子、高坂正堯ゼミの出身です。だからイデオロギー的に危険だというような決めつけをすることはよくないでしょう。でも、グローバリズムにおける日本の世界史的ベクトルの選択となる「憲法改定」について、西原氏が「改憲派」といわれていることも、気になります。

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民主党について2005年09月18日 00時23分29秒

 民主党の代表はやはり前原氏になりました。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050917-00000100-mai-pol

 小泉台風が民主党内部にまで吹いているということでしょう。

 世代論・イメージ論が、理念や政策より優先されるという政治傾向は、さらに各方面に害悪を及ぼしていくことでしょう。ともかく、小泉政権にとっては非常に喜ばしい事態です。

 ただし、前原氏が明確に9条改定議論を進めると言っていることはよいことです。この問題を曖昧にしておくと、反動的な改憲勢力を利するだけでしょう。

 民主党内の「護憲派」は、攻勢的に議論をしていくべきです。新自由主義と国家主義が手を携えてやってくることを、徹底的に暴露していくチャンスにしなければなりません。

 それと、国家主義勢勢力が狙う24条や教育基本法についても、攻勢的な議論をしてもらいたい。

 「民主党のジャニーズ系」(どこが?)のもとでまとまらなければと、党運営・「党の団結」を優先させると、結局、民主党は消滅への道に向かってしまうでしょう。

「日本のブレア」?2005年09月19日 21時50分50秒

 私は、新自由主義と国家主義の方向に日本を導く小泉・自民党を勝利させないために、総選挙では民主党の勝利を願わざるを得なかったのですが、このブログにも書いてきたように、民主党には大いに不満がありました。選挙戦の過程では、理念・政策を具体的でわかりやすく提示できない点が不満でしたし、そのことは実は民主党の理念が曖昧であるからだとも思ってきました。

民主党は、、経済政策においてはネオ・リベラリズムだという批判される側面があります。ですが、旧社会党系とか市民派といわれる潮流が党内にもあり、また国民にも社民的な観点から支持している人々も多いわけです。

しかし、今回の代表選とその後の執行部の人事を見ても、「中堅・若手」などと言われる、改憲派、新自由主義的改革派の傾向が強まっています。

 朝日新聞は「前原氏は「税金の無駄遣いを徹底的に省き、予算配分を思い切って変え、教育や社会保障など人に温かい政策にはしっかり費用をかける社会」を提唱した」から、「日本のブレアをめざせ」と言いましたが、「人に温かい」とか「セーフティネットをはる」という面は前原氏が強調されているとはいえません。

http://www.asahi.com/paper/editorial20050918.html

「税金の無駄遣いを徹底的に省き」という面でも、利権構造にメスを入れ小泉自民党の金持ち優遇と対決するという観点が欠落すると、自民党と対抗する姿勢がクリアーになりません。

その点で、「不幸な人をできるだけ少なくする『最小不幸社会』の実現を、党の基軸にすべきだ」という菅氏のが代表になっていれば、旗幟鮮明になる可能性が高かったでしょう。(最小不幸社会という言い方は?ですが)

 ブレアの「第三の道」は、実際に実現した政策がどうだったかを別にして、発想としては良かったと思います。

 しかし、自民党から政権をもぎとるという意味での「日本のブレア」になるためには、当然ながら、新自由主義と対決していきながら、これまでの旧保守的利権社会の構造を改革していくという、理念・政策体系をわかりやすく示すことが求められているのはないでしょうか。

ドイツ社民と日本の「革新」2005年09月20日 23時25分02秒

ドイツの総選挙結果は日本とかなり違ったものになりました。CDU・CSUと自由民主党を足しても、過半数に届きませんでしたから、自公圧勝の日本とは大きな違いがあります。

とはいえ、「左翼の輝かしい歴史」を体現する社民党が与党だったのであり、日本とは事情がかなり違います。

注目すべきは、新自由主義改革を導入した社民・緑の党連立のシュレーダー政権に対抗する、左派党が躍進したことです。議席数は

CDU・CSU225
社民党SPD222
自民党61
左派党54
緑の党51

とのことですので、社民・左派・緑の党が連立すれば、保守政権を阻止できるはずです。ところが、シュレーダーは連立政権の協議を促す書面を左派党を除く各党に送付したそうです。日本の「自民と民主の大連立」みたいな話です。

 左派党は、民主社会主義党と社民党を離党した左派が今回の選挙前に合流してできました。民主社会主義党の源流は、旧東独の悪名高き社会主義統一党でしたが、その改革派が自己批判してつくられました。社民党左派は、『国境を超える社会民主主義』を書いた社民党元党首のラフォンテーヌが入っている!

その理念・政策については、具体的に読んだことはないのですが、興味があります。

 おそらくシュレーダーの政治家としての実力・見識は、失礼ながら民主党の「43歳新代表」氏など、ものの数ではないでしょうし、むしろ日本の民主党現執行部はアメリカ民主党に親近感をもつでしょう。でも、保守に対抗する勢力の中に新自由主義が浸透する(せざるをえない)共通の傾向と、それへの対抗の仕方に注目したいと思います。

また、日本の「革新」「リベラル」「社会民主主義」の惨状と、ドイツの社民勢力・左派勢力の厚みやダイナミズムとが異なることも注目されます。

自己の陣地を広げることを第一義的にして、対話や議論がほとんどできない閉鎖的な戦後日本の「革新」の体質から、社民党・共産党が脱却してもらいたいものです。というか、市民が下から閉鎖的体質を打ち破っていくしかないでしょう。では、そのためには!?

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相互に批判しつつ共同して進む2005年09月21日 22時57分26秒

 総選挙後、民主党が前原執行部となったこともあって、あちこちのブログで、社共共闘をはじめとする、反小泉=反新自由主義勢力の共同をめぐって議論が続いているようです。

 共産党について言えば、「70年代の遅くない時期に民主連合政府を」めざしていた頃から、「革新統一戦線」を綱領レベルで位置づけてきました。そして、現実に「革新自治体」が各地に実現したわけです。それは、当時の支配層にとっては脅威であったから、社共を分断する戦略がしかれ、社会党右派を先頭にそれについて乗せられ、共産党の側はそれを「右転落」と激しく批判して、共闘は消えていきます。

低成長に移行する中で「革新自治体」の政策が特に財政面問題があったし、冷戦中という国際環境のもとで、社共のスタンスは、ソ連など国家「社会主義」=全体主義に極めて甘く、政権をとれなくて国民にとってはよかった面の方が大きいかったでしょう。ただ、「革新自治体」の族生が自民党政権による歪んだ「社民主義」=弱者の一定の保護を実現させたことも事実です。

 当時の社共は、労組・平和運動・生協など、あらゆる面で、どちらがヘゲモニーを握るかという小権力闘争を繰り広げ、結局、国民大衆の運動を破壊していくという働きもしました。当時、新左翼のかなりの党派が「内ゲバ」という相互犯罪行為によって没落しましたが、社共もまたそれに近いことをやってきたというのは言い過ぎでしょうか。

同じ政党でないのだから、見解が異なることがおおければ、議論や相互批判をすることは当然です(同じ政党であっても内部で批判の自由がないのは民主主義政党として終わってますが)。しかし、より危険であり強大である共通の「敵」に対して、共同して対抗するということが、左翼はできません。

 私は、昔はそれを指導部の戦術の稚拙さとか、頭の固さによると考えていました。しかし、そうではなく、左翼の中にある「自分たちは正しい」という前衛主義、真理をつかんでいるという認識論、誤った分派・党派の害悪は絶対に許せないという攻撃性等々、構造的・思想的病理だと思っています。(その病理はもちろん、日本だけに見られるものではないのですが)

異なる意見の間で議論することは、民主主義には不可欠です。だからこそ、違う意見の人たちと、一致できる点を見いだし、それに依拠して共同をつくりだし、現実を変えていく力を創出していく・・・・、それが民主主義を本当に血肉化している政治集団ということでしょう。

 さて、現在、たしかに民主党の中には新自由主義や国家主義を信奉する人もいます。「左」の党派や人々が、それを指摘し、批判することは正しいし必要でしょう。しかし、民主党の中にも支持層にも、経済的に社民主義的で、政治的・社会的にはリベラル(反国家主義)の人々も確実に存在します。前原執行部でさえ、「弱者に対してはセイフティネットはる」と小泉自民党との違いを言っています。

 であるなら、現在の所与の条件の中で、民主党が小泉自民党の政策に引きずられたり加速さえしかねない側面を封じ込め、民主党の積極的(よりまし)な側面を拡大するような批判が求められているということでしょう。

 逆に、社民党や共産党の護憲や経済政策の観念性についても批判が「右」からも「左」からも、加えられる必要があるでしょう。そして、相互批判が国家主義・新自由主義の小泉自民党を倒していくという点での共同をつくり出していくような質がつくられていくことを望みたいし、そのような声を広げたいと願っています。

 私は、どの政党の支持者でもないので、勝手なことを言っているだけかもしれませんが・・・。

追記:「あまりにナイーブすぎる」と思われたら、それは100%甘受します。

「護憲」か「平和主義的改憲」か2005年09月24日 23時42分42秒

 前の記事へのトラックバックを頂いた記事のうち、半共分子さんは、

「不合意点」を、合意文書に明示し、ここの意見の相違と批 判 は自由、内ゲバ(内部抗争)ではない、とすること、が大事 だ

と書かれています。http://blog.so-net.ne.jp/hankio/2005-09-23

 また、春秋子さんは、

そもそも統一戦線、人民戦線なんてのは、「小さい左」が「大 きな右」をのっとるための運動論

であるとされています。 http://plaza.rakuten.co.jp/boushiyak/diary/200509210000/

 ということで、民主党(左派・リベラル派)と社民党そして共産党が、容易に共同行動をとることの困難なり不可能性があり、それをどう評価するかについての見方もいろいろと分岐しているということでしょう。

 私は、「社民党や共産党の護憲や経済政策の観念性についても批判が「右」からも「左」からも、加えられる必要があるでしょう」と書きましたが、たとえば右翼・保守勢力から提起されている国家主義的改憲に反対する立場であっても、「護憲」(のみ)を主張する立場と、「立憲主義的・平和主義的改憲」を主張(容認)する立場との相違があります。

 民主党の「論憲」は後者ですが、しかしその具体的な方向が定まっているわけではありません。総選挙でのマニフェストでは、立憲主義や3つの基本原則の深化・発展を抽象的に掲げただけで、やや具体的なのは「女性の皇位継承」くらいでした。民主党内で言われているのも、国連の集団的安全保障に参加、専守防衛に徹し「制約された自衛権」という十分に明確でない方向に過ぎません。(簡単に党内がまとまるでしょうか?)

 では、「護憲」勢力の方はどうでしょうか。社民党は与党時代に転換して現憲法下での自衛隊を「合憲」としましたが、現在は、新ガイドライン体制・テロ特措法等の下での自衛隊の現実は実質的に憲法をはみ出しているとして、非武装中立の理想に向かって軍縮を強調しています。

 共産党は、自衛隊は「違憲」であると、憲法発足時の政府解釈の地点にいるといえるでしょう(その時点で自衛の放棄を批判したのは当の共産党ですが)。しかし、自衛隊の解消に向かうけれど、あるうちは侵略があれば自衛隊を活用すると言っています。

 さて、国民の大多数が自衛隊の存在を肯定しているのが現実です。それは、侵略に対する防衛には一定の軍事力が必要であるという常識的直感に基づいています。それに対して、侵略してくる国など現実にはないとか、現代では軍事力では防衛できないなどという「説得」がなされることもありますが、そのような議論は無力ではないでしょうか。今すぐ侵略される恐れがあるから国民は自衛隊を肯定しているわけではないからです。

 ということで、自衛隊の装備・編成や現実の日米安保体制下の役割について問題が山積しているとはいえ、「必要最小限度の防衛力」としての自衛隊(という理念)を否定した上での、「護憲論」は非常に観念的で危ういと思います。まあ今の「護憲」は、自衛隊の存在を問わないとなっているとは思うのですが、だからこそ落とし穴があるような気がします。

 「9条改憲」=「戦争のできる国にすること」という批判は、戦前に郷愁を感じるナショナリズムの立場からの改憲論や、米戦略に従属していくという「集団的自衛権」推進の改憲論に対しては、有効な批判であるとは思います。しかし、防衛力の制約を含む自衛権行使の明確化や集団安全保障体制への参加という角度からの改憲論もいっしょくたにして、改憲=悪という立場に還元する視点は、議論を政治主義的に歪めるし、多くの国民からも共感を得ないでしょう。

 以上は簡単なスケッチに過ぎず、憲法に関しては、多様で豊富な論点があります。戦後民主主義を発展させる立場であっても見解の相違は多様ですが、批判・議論は、あくまで理性的に丁寧に行っていく必要があると思います。

『動物農場』 ことば・政治・歌2005年09月26日 23時41分45秒

川端康雄氏の『「動物農場」 ことば・政治・歌』を読みました。

みすず書房が刊行を開始した「理想の教室」というシリーズの1冊です。多くのアホな人同様、私もそうなのですが、こういうシリーズについて、「啓蒙的すぎてどうでしょうね?」みたいにくさしてみたくなりますね。みすず書房という知的な雰囲気の出版社が出しているから。でも『「教える-学ぶ」ための新シリーズ』と銘打っているわけですから啓蒙的なのは当たり前。

そんなことを言う奴に限って、高校時代に図書館などで、こういうシリーズの1冊に惹かれて、手にとってしまったりする経験があるものです。(私のこと)

さて、この本は、最初に『動物農場』の抄訳がついていて、そして、川端先生のユーモラスな講義が読めます。今の若者にウケルかどうかは、わかりませんが、レッサーパンダの風太君の話なども織り交ぜて、興味深く語られます。そして、その内容はけっして若者向けに薄められてはいません。

私は、昔まさに「全体主義ソヴィ エトの寓意小説」としてざっと目を通しただけでした。ロシア革命とスターリン体制樹立の歴史経過が、『動物農場』での動物たちの革命の顛末として、語られているのですが、誰がみても「あのことだ」と感じさせるように、直接的に喩えられた話として、あまりに露骨な気がしました。

多分、ソ連崩壊以前に私は読んだのですが、オーウェルのソ連に対する冷笑的ともいえる視線のみを強く感じたのです。「ソ連がどうしようもないのはわかっている。しかし、ブタや羊の動物による茶番として描くだけなら、どこにも希望がない。<民主的な社会(主義)>への展望もないじゃないか」という感じだったでしょうか。

それは、私がソ連スターリン主義=全体主義の恐ろしさについて十分に認識していなかったこともあったでしょうし、また、オーウェルが書いた当時のイギリス知識人の多くが、ソ連賛美の大合唱に加わっていたという事情も実感としてわからなかったということもあります。

それに加えて、私は川端氏のこの本を読んで、なるほどと思うことがたくさんありました。革命指導者としてのブタが設定されていることに関わって、実は癒し系のブタのイメージもあることが指摘されています。そこで、寓話やおとぎ話について、知りたくなりましたね。

また、実際のブタの姿、たとえば足や指についてイメージをもつことが、この物語を味わうために必要だったということも、書かれています。実はブタの足の使い方が、政治の転変を如実に示すという、オーウェルの仕掛けについて教えてくれます。

そして、最後に、「この物語作者は、同時に自分の希望の歌を歌っている」と川端氏は書いています。なぜかは、この本を読んで実感しましょう。

孤立しながらも左翼知識人のソ連迎合について批判し抜いたオーウェルの戦いは、有名な『1984年』同様によく知られています。しかし、それは単に「政治思想」だけの問題ではなくて、もう少し根深い人間としてのあり方や感じ方、表現の仕方と関わっていたのではないかなど、あれこれと考えさせられます。ともかく、時間をつくって『動物農場』を味読したいです。