「新党日本」批判への違和感:短絡的な攻撃ではなく討論を!2007年06月06日 22時47分28秒

いくつかの、私が敬愛して読んでいるブログで、新党日本や田中康夫氏・有田芳生氏の参院選立候補表明へのネガティブな記事を読みました。

たしかに、反与党・反安倍の票が分かれて、結果的に与党を利する可能性があります。また、有田さんの都知事選での浅野候補への批評については、私も強い疑問があります。(その背景にあったと予想できる、民主党-田中氏-浅野氏らをめぐる生々しいいきさつが垣間見られていやでしたし)
でも、ちょっと冷静になりましょうよ。

天木直人氏・川田龍平氏の立候補も「真の対決を隠す」云々と批判?されたりする状況に、非常に違和感を感じます。
意見の違い、立場の違いがあるものが、討論し批判し合うことは結構ですし(共同に至るためにも)必要ですが、相手を「反動の手先」「反革命」と決めつけるこの国の左派の悪しき習性にもつながっていく気がしてしまうのです。

有田氏について言えば、オウム事件で有名になる前に、共産党の中で『文化評論』という雑誌編集部で、こつこつと統一協会による洗脳やパート労働者の運動などをとりあげる仕事、そして共産党自体の問題について、人生を賭けてやってきた人です。「だからいいじゃないか」ということが言いたいのではありません。有田氏の現在の(そしてそこに至る)思想なり言動なりをまったく度外視して、ある一点(二点?)で裁断するようなあり方に怖さを感じてしまうのです。
以前に私は、「もしも全共闘と日本共産党が合流していたら」ということを書きましたが、結局、21世紀の現在も憲法改悪に反対する人々が、20世紀の教訓から学ぶ必要があるのではないでしょうか。

以上のことは、言葉足らずかもしれませんが、根本的な姿勢・精神の問題として書いたつもりです。
そして、もしも<票が割れてしまい与党=憲法改悪勢力を利する>という問題を真剣に私たちが問うとしたら、その姿勢や精神自体が大切になってくるのではないでしょうか。

『滝山コミューン1974』2007年05月27日 13時27分34秒

 『赤旗』と『朝日新聞』の情勢分析を読んで、私は共産党38議席を予想していたことを思い出しました。1972年12月の総選挙のことです。
 この本『滝山コミューン一九七四』は、私を1970代にタイムスリップさせてくれました。
 私は、中学生で、その年頃にありがちな傾向もあって、衆議院全選挙区の星取り予想を新聞に書き入れ、周囲の大人が「そこまでいかないよ」と反応していたのに、結果として「革新共同」も含めて共産党が40議席に達したので誇らしかったという、くだらないことを突如思い出したわけです。

 著者の原武史氏は、当時の具体的な社会状況をご自身の体験に基づいて描いていきます。当時の小学生だった著者よりは、私は少し上であったけれど、同じ衆議院選挙区に居住し、同じように「民主教育」の影響力が強かった公立義務教育を受けていた者にとっては、あまりにもリアルな出来事が本書では展開されています。

 だから、この本を読んで、多くのことを突きつけられました。あれから30年以上経て、考えなければならない多くの課題を。

 たとえば、あの頃、「憲法を暮らしに生かす」というスローガンがありました。革新自治体が簇生する状況の中で、多くの人々が「平和と民主主義」を自らの生活に結びつけて、考え行動したわけです。
   しかし、同時に、本書で描かれているように、まさにその「憲法を暮らしに生かす」運動潮流自体に中に、個を圧し殺してしまう要素が胚胎されていました。
 そのことと、安倍政権のもとで憲法の精神自体を圧し殺そうとする動きとは、直結するわけではありませんが、多くの伏流として歴史の重層の中に入り込み、現在の<危機>を形成する要因となっていることも事実だと思うのです。
 本書でも、著書は「君が代」斉唱が強制される、今の学校現場の現実を想起しながら、「民主教育」が行った同様のことがらを(こう書いてしまうと抽象的なので、この本を読んでいただくしかないのだが)、抉り出しています。

 また、自分の職場など周囲で、個人を圧し殺すようなことが起きたとき、反射的にそれに抵抗するようになることが大事だという(表現は不正確)、鶴見俊輔が強調していたことも思い出しました。この本で原武史少年は、周囲が目を輝かせて「コミューン」に飲み込まれていくのに、それに対する違和感・抵抗感を失うことはありませんでした。

   個人的にも、私は小学校からの教育の中で、「君が代」を強制的に歌わされたことはありません。その事はとても良かったと思います。同時に、本書で描かれているような学習や生活をめぐる、「班競争」の活動を(多少薄められた形だったとは思いますが)経験したことを思い出しました。そして「班長」が「班員」を選ぶという行為を私は「班長」として嬉々としてやっていたことを思いだし、非常に暗い気分になりました。
 もちろん、私の「民主教育」経験は、おそらく、あの民間教育研究団体の直接的影響力がそれほど強くなかったからか、「滝山コミューン」ほどではなかったのではないかと思います。
 だからか、小学生の時から『赤旗』を読み、その非デモクラット的要素について、それなりに言語を通して感受していたはずなのに、「平和と民主主義」潮流の中に、全体主義の要素が確固として根付いていることに自覚的になったのは、かなり後になってからでした。

 この本の帯には「2007年、今の「日本」は、1974年の日常の中から始まった。」とあります。私は、最初非常に違和感を感じましたが、いろいろ考えると、それは間違ってはいないというふうにも思います。
 つまり、「憲法を暮らしに生かす」というスローガンが無力になり陳腐になったのは、「平和と民主主義」潮流自体の中に、そうのようにしてしまう体質があったことが小さくはないし、また、現在もそれは克服はされていないと思うからです。
 軍国主義や国家主義に反対していると思っている「護憲派」の人に、特に70年代を知っている世代には読んでほしい本です。

お詫びと雑感(このままでは憲法改悪を阻止できない)2007年04月08日 22時01分26秒

 3月末に、私は「絶望的な状況」と書いて、いくつかのブログにトラックバックをおくったのにもかかわらず、一時的にその記事を非公開にしてしまい、大変失礼をいたしました。
 特に、TBをいただいていた Weblog of ЗЧБ(三四郎日記)さんに対しては本当に失礼いたしました。
 <共通に批判している勢力を利するだけだ>等の声を聞き、泥試合はやめようと他のブログでも言われているように、知事選が終わるまでは勝手に「凍結」させていただておりました。(投票が終わり、私にも少し時間的余裕もできたので「解凍」しました)。
 
 さて、現時点で、統一地方選の開票はほとんど進んでいませんが、各メディアは、現職知事の当選を伝えています。

 石原氏を都知事から追い落とすことができれば、日本の政治の流れを変えるのにある程度貢献できたでしょう。
 しかし、またしても「革新政党」も市民運動もヘタをうったということになりそうです。

 ところで、私は「「左翼」だとか「革新」だとかを仕切る人々(一種の権力者、イデオロギー流通業者、つまり党派などの戦略・戦術を決めて、自分たちの正しさを宣伝している人たち)の実態が、いかなる代物なのかが明白になっている」と書きました。また、以前に、ピンぼけの共産党による民主党批判を書いたりしております。
 しかし、私は一度も、(都知事選で)「共産党は、吉田候補 支持をやめ浅野候補を支持せよ」とか「共産党は民主党の政策がどうであれ、野党共闘に加われ」などと主張したことは、ありません。
 <民主党と手を組まない、民主党は自民党と同じだ>という図式を押し通すことによって、自民党を(正確には自民党内の復古主義的勢力と新自由主義勢力を)勝利させることになるという現実の効果を指摘し、共産党指導部の観念的な図式主義の危険性を言っているにすぎません。
 したがって、私の批判の対象は、民主党指導部(といっても民主党は共産党のような上意下達的組織ではありませんが)や市民運動や「リベラル文化人」が、共産党や(保守勢力も)含む幅広い共闘を創り出す努力をしていない点にも当然及んでいます。

 何より哀しいのは、共産党指導部の展望を自ら閉ざすやり方を批判すると、<民主党を支持せよというのか。こんなにに民主党はひどいんだぞ>という答えがかえってくることです。
 いうまでもなく政治は動態です。異なる思想や政策をもっている勢力とある次元では手を結び、力関係を変えて、少しでも政策を実現していくという姿勢がなければ、結局、他の勢力の背景にいる人々の支持を得ることもできず、状況を悪化させるだけです。毛沢東でもレーニンでも、当然に理解していた政治のABCでしょう(彼らの全体主義思想・戦略・戦術に原理的に私は反対ですが)。

 ましてや、現代では、政治目標を実現できない政党や政治勢力は意味をもちません。今回の選挙でも「マニュフェスト」が喧伝されましたが、実現できない政治目標をくり返しているだけでは、現実の力にはならないでしょう。

 何よりも、このままでは、憲法改悪を阻止することはできないでしょう。戦前の軍国主義やナチスを阻止出来なかったことを思い起こすべきです。
 憲法の改悪の阻止をするためには何が必要なのか、主観的願望を抜きに、冷静に考えるべきです。「正しいスローガン」を自己満足的に叫ぶより、むしろすべての要素を計算しましょう。
 どうして政治を良くしようという人々にリアリストが少ないのでしょうか。
 憲法改悪がされ、また、日本の庶民が核戦争の被害(加害)者になっても、同じように<「正しいスローガン」が残念にも理解されなかった。でも、こういう前進の芽があったのだから頑張りましょう>ということになるのでしょうか。

民主党に白紙委任できないのには賛成です2007年01月07日 21時42分47秒

 私の昨日の記事「ピンぼけの共産党による民主党批判」にコメントをしていただけたブログ今日の出来事の「優柔不断な民主党に白紙委任状は出せない」という記事を拝見しました。new-eraさんには拙文をとりあげていただきありがとうございました。

 new-eraさんの記事は拙文への批評という体裁をとられていますが、「優柔不断な民主党に白紙委任状は出せない」という主張が中心点で、つまり実質的内容は民主党批判だと読ませていただきました。

 「優柔不断な民主党に白紙委任状は出せない」という点については、私は全面的に賛成します。
 第一に、共産党や社民党を含めて「どの党にも白紙委任などできない」というのが私の意見ですし、第二に、民主党は本来的に新自由主義的傾向を抱え、内部にもさまざまな色合いの改憲派がいて(その中には国家主義的改憲を推進したり、それへ無抵抗な人々を含みます)、私の個人的な意見とは相容れない部分があるからです。

 ただ、new-eraさんが拙文への批評という体裁をとって、拙文に対して記事を書かれていらっしゃり、どうしても誤解もされていると読めますので、最低限のコメントをさせていただきます。

まず次の点なのですが
かのブログでは、『共産党の<改憲派を包囲・孤立させることが重要課題>とする主張には賛意を示しながら参院選で与党を敗北させることが重要であり民主党勝利を優先させなければならない』、としている。
と書かれていますが、私は、その点を次のように書いているのです。
 しかし、このブログでくり返し書いているように、2007年の現在の情勢での、具体的課題は、国家主義的・米国従属戦争参加目的の憲法改悪を阻止するためには与党を参院選で敗北させることであり、それを、何より優先させなければならないと思うのです。
 私は(共産党であれ、誰であれ)「民主党勝利を優先させなければならない」などとは思いません。そうではなくて、<与党(その中心は憲法改悪を推進する自民党です)を敗北させて、憲法改悪を路線をストップさせ、改憲の発議をできなくさせることが最重要課題だ>と言っているだけです。

 new-eraさんが書かれているように民主党には問題があります。教基法改悪時の国会での民主党の腰砕けには私自身痛憤いたしました。ですから民主党を批判してはいけないなどと私は考えておりません。(たとえば、new-eraさんが言及されている「前原民主党前代表」の時には、「無責任な民主党前原執行部への批判の声を集中し、小泉自民党に奉仕する民主党内の潮流を「解体」させていくことが、今、必要なことです」と書いたこともあります)。

 長くなってしまいましたが、私が志位さんの幹部会報告を読んで言いたかったことは次の2つです。
 1)民主党を批判するのはよいが、「民主党はまったく自民党と同じ」は説得力がないということ。
 2)民主党と選挙協力をどのような形態であれ完全否定して、自民(与党)批判票が分散して自民党の勝利に手を貸してしまうのを、私のような庶民はもっとも恐れるということ。


 1)について、もう少し述べさせていただきますと、実効力のある批判がほしいということです。
 たとえば国民投票法についての姿勢は共産党と民主党では異なります。共産党の立場から、「国民投票法は憲法改悪のステップなのだから断固反対せよ」と批判することは当然でしょう。しかし、たとえ国民投票法に賛成したからといって「憲法改悪の道を開く自民党と同じだ」という批判は説得力があるでしょうか。「イラク特措法」と「テロ特措法」に反対した民主党、「憲法9条に則る」と言っている民主党という現実(それは一面の現実に過ぎないという立場を私は否定しませんが)があり、しかも、国民の中の民主党支持者は共産党の数倍という現実があります。
 そのような現実のもとで、憲法改悪を止めるためには、思想信条の違い、立場の違い、党派の違いを超えて、民主主義と平和主義を守るために力を合わせようという流れを、創り出すことが私は今、もっとも必要だと思っています。
 その<流れ>の具体的存在形態が上記の2)の政党間の選挙協力です。参院選まで半年ある現時点で、あらゆる形態の選挙協力を自ら(結果的にではなく)完全否定することが、憲法改悪阻止の流れにとってどのような効果をもたらすでしょうか。

 安倍政権は今つまずいていますが、当然に自民党は選挙目当ての手を次々とくり出してきます。参院選で野党が足を引っ張り合って与党が大勝するという悪夢が現実にならないように、声をあげていきたいです。「社民主要打撃論」がファシズムの伸張に手をかしたような事態はどうしても避けたいと思うのです。

 尚、私は、「民主党は情報公開型政党」だとは書いておりません。企業献金に私は反対ですが(キャノンに親近感をもっていたが )、共産党より自民党や民主党の政策決定過程の情報が庶民には見えやすいのは事実だと思っています。ただし、その政策が庶民にとって「正しい」かどうかはまったく別問題ですが。
 <情報公開>とマルクス主義の<前衛党>の問題などは、いつか余力があったら考えてみたいと思っています。
[追記]:ブログ「秘書課村野瀬玲奈です」さんから、「各政党への代表窓口」のTBをいただきました。各政党へ意見を伝えることは大切なことだと思います。ありがとうございました。

ピンぼけの共産党による民主党批判2007年01月06日 21時32分35秒

 日本共産党の第三回中央委での志位委員長の報告を読むことができました。
 安倍政権への批判などは的を射ている点が多々あると思います。しかし、安倍政権の暴走ストップを願う、私たち庶民の声が届いているのでしょうか。もっとも残念なのは、民主党批判のあり方です。志位さんはこう言っています。
  ・・・こうして三年余りの動きを検証してみても、三年前の民主党と自由党の合流が、それまでの民主党の性格を、いわばもう一つの自民党へと大きく変質させた、このことは明らかです。今日の民主党は、自民党政治の「三つの異常」を共有する政党であり、政治の基本でどちらかが「よりまし」とはいえないのであります。
 わが党は、国会内の対応で、与党の暴走を食い止めるうえでの野党間の連携は、条件があれば今後もすすめます。しかし、民主党がもう一つの保守党への変質を明瞭にしたもとでは、政権共闘はもとより、国政選挙での共闘も問題になりえません。自民・民主の合作としてすすめられている憲法改定のくわだてを打ち破るために、草の根から国民的多数派を結集し、改憲派を包囲・孤立させていく、このことが、今後数年を展望して国政の最重要の課題になっていることを強調したいと思うのであります。(拍手)
 まったくため息をつくしかないというところでしょうか。

 共産党が民主党の政策を批判することは当然のことですし、与野党問わず政策論争をどんどんやってほしいです。そして、自由民主主義・平和主義を保守する立場からすれば、志位氏が言うように<改憲派を包囲・孤立させることが最重要課題>です。
 しかし、このブログでくり返し書いているように、2007年の現在の情勢での、具体的課題は、国家主義的・米国従属戦争参加目的の憲法改悪を阻止するためには与党を参院選で敗北させることであり、それを、何より優先させなければならないと思うのです。
 
 いくら民主党に入っていたリベラル・革新系の票を共産党が少しくらい獲得できても、野党の協力もなく、建設的な政策論争もない泥仕合をして自民党が勝てば、憲法改悪への道にまっしぐらに進むでしょう。いくら共産党の票が増えてたとしてもどうなるでしょうか。
 自民党が国政選挙で得票率では少数派なのに多数議席を占めて、教育基本法改悪という悲惨な結果を許した、この数年の経緯から明らかです。

 「民主党はもう一つの自民党と同じ」として国政選挙での協力もしないと宣言するのはのは、あまりに乱暴です。防衛政策ひとつとっても民主党は「専守防衛」によって集団的自衛権に枠をはめています。共産党から見れば不十分に見えるかもしれません。しかし、今、問われている、9条を変えて米国の下請け戦争に参戦できるようにする憲法改悪に民主党は賛成はしていません。

 
 日本国憲法の理念に基づき、日本及び世界の平和を確保するために積 極的な役割を果たす。自衛権は、これまでの個別的・集団的といった概念 上の議論の経緯に拘泥せず、専守防衛の原則に基づき、わが国の平和と 安全を直接的に脅かす急迫不正の侵害を受けた場合に限って、憲法第9 条に則り、行使する。それ以外では武力を行使しない。
 これが民主党の政策マグナカルタの防衛政策ですが、9条改悪を俎上にのせようとしている安倍自民党と同じだと志位共産党は強弁するのでしょうか?

 志位氏は<民主党批判を進めるうえで「情報提供型の対応」をするのが大切だ>と言っています。
 多様な潮流をかかえた民主党が、外からも見える形ですったもんだしながら政策をつくっているのに対して、何の情報公開もなく「中央」から正しい政策が決定される共産党が<情報提供型>を強調するというのも何ともアイロニカルです。

 大きな歴史の流れを見れば、ファシズムの政権獲得を許した教訓は、社会主義者でなくても共有されていたはずですが、「過去の戦争への無反省という異常」を指摘することができなくなるのではないかと危惧します。志位氏は社民党が民主党と選挙協力をすることを批判していますが、安倍自民党の勝利に手を貸すような<批判>ではないあり方を望みたいものです。

 尚、aiubisさんに紹介していただいた、2007年参議院選挙 野党共闘 にもTBをします。

「もしも全共闘と日本共産党が合流していたら」2005年12月12日 18時14分21秒

 歴史をふりかえって「もしも・・・だったら」と考えることは、その時の現実がはらむ豊かな可能性を洞察することに他ならない。そのことを改めてふと思ったのは、「世に倦む日日」で「ジョンが生きていたらイラク戦争は阻止できていた」の記事で、
2月15日はロンドンで百万人の大集会があり、この数字が世界の人々を驚かせた。日本ではイラク反戦は盛り上がらなかった。せめて十万人の動員はあってもよかった。
と書かれていたのを目にしたから。

 イラク戦争開戦前後、2003年の3月の集会について、意義はあったが、世界の他都市と比べて、あまりにも少ない参加者だった。自衛隊派遣の時もそうだ。
 宮台真司が言うように、<今どきデモや集会で吹き上がっても何の意味もない>という面は確かにある。
 しかし、やはり人が街に出て意思を表明する行動は、TPOが適切であれば現実を動かす力の一つになり得る。
 日本の集会の数が少ない原因について、「一騎当千のカリスマがいたからではないのか。人物がいなければ運動は絶対に成功しない」とthessalonikeさんは書いていて、(それはジョンレノンの魅力的な話になるのだが)、そういう面もあるだろう。が、私は、この日本の社会の政治・文化そのものの問題だと思う。人の意思形成や行動する力そのものを溶解させてしまった、この国の閉塞した状況そのものが根本的な原因なのだ。
 もし、より多くの人がイラク攻撃に疑問をもち、周りの人とそのことを自然に話し、ある人は自然に抗議の行動に移るという状況があれば、運動のカリスマは大衆が育て・創り出すこともできたかもしれない。

 そして、その閉塞した政治・文化状況をつくり出した責任の一端は、左派・革新派の政治エリートや指導者たちにもある。

 最近、通読した島泰三『安田講堂1968-1969』(中公新書)には、次のようなことが書かれていた。
ひとつの仮定をここに置く。もしも、東大闘争の最終局面、つまり1968年の12月の段階で、日本共産党と全共闘が合流していたとしたなら、事態はどうなっただろうか?と。あるいは、日大では右翼・体育会と日大全共闘が合流したとする。
・・・(略)・・・
 そこから、本格的な闘争が始まるはずだ。それがどうなるにしても、日本は新しい道を模索することになる。それは、是非とも必要な道だった。
 なぜ、それがよくても悪くても選択しなければならなかった道だと言うかといえば、それがなかったから、今の日本に至りついたのだと言えるからである。
 この本は重い書である。私は、全共闘の暴力的な闘争方法を基本的に評価できないのだが、この書では、闘争の必然性とその情念をよく理解できた。著書の誠実さが伝わってきた。

 引用文中の略した部分で「この仮定を語ると、当時青年だった現在老年初期の人々は、一様に『とんでもない』という顔をする」とあるが、おそらく政治運動や左翼について、ある程度の知識がある人なら、誰でも「とんでもない」と言うだろう。

 しかし、この歴史の「もしも」はあまりにナイーブすぎるからこそ、現在、何が求められているかを端的に示していると、私は思う。
 もしも「日本共産党と全共闘が合流していたとしたなら」が可能になっていたと仮定すると、それは東大闘争だけの話だけではなく、「左翼」の自己改革ができていたということだろう。
 自己改革とは、日本共産党がスターリン主義を克服し、運動を引き回し党勢拡大の手段にすることをしないということを意味する。社会党も、新左翼諸党派も同様である。全共闘の暴力主義の傾向も同根だと思うので、やはり克服されるということだ。
 いずれにせよ、その「もしも」が成立するような状況ができていれば、その後の連合赤軍事件や公労協ストの敗北やオイル・ショックがあったにせよ、「自分たちだけがいつも正しい」という独善に基づく、労働組合やさまざま分野の運動の分裂、弱体化をかなり避けることができたろう。「内ゲバ」や組合選挙での泥仕合から、若者が政治に接近できないという傾向ももう少し何とかなったかもしれない。

 日本共産党内でも、大学闘争を牽引した「新日和見主義者」たちの粛清も80年代の平和運動における党員追放もなかっただろうし、中央指導者に忠誠を誓うものしか生き残れない中世的な党運営もなくなって、複数の潮流が存在するようになったであろう。
 社会党・共産党・新左翼の断絶ではなく、論争は継続されたはずだし、全体主義的な社会主義を克服する道も、グローバリゼーションに対抗する方策の追究も進んだはずだ。少なくとも、68年世代が国会にもっと進出し、活躍していただろう。

 というわけで、そうなっていたらなら、イラク戦争や自衛隊派遣反対の集会には50万人集まっていたかもしれないし、北朝鮮拉致被害者を支援する集会には「革新」党派が先頭にたって100万人集まっていたかもしれない。

 そうならなかったのは、左翼・「革新」勢力のどうしようもない保守性、党派主義、「自分たちは正しい」という独善が大きいということではないか。「全共闘と日本共産党が合流」できず徹底的に憎悪し合って終わったように。そして、その根底には、言葉によって相手の納得を得るという民主主義的な姿勢の欠如=<物理的な暴力や多数決によって「正しさ」を押し付けようという全体主義>がある。

 左翼・「革新」の今なお残るその傾向を何とかしなれば、憲法改悪や「改革ファシズム」を阻止することもできないのではないか。「決定史観」に立たずに歴史の豊かな可能性から学ぶということは、それを現在と未来に生かすということだろう。


ブログが「生産的な論争」を生産するとき2005年11月09日 22時20分04秒

先日の記事で書いた、日本共産党とスターリン主義などをめぐる論争について、もう一度感想を述べておきます。

まず、僭越な言い方なのですが、今日、「カッシーニでの昼食」を読んで、ともえさんのスタンスに共感をしました。最近は、党中央テキストの受け売りオウム口調がすごく気になっていたのですが、thessalonike2さんが問われた、スターリン主義とは何かについても「少し自分で考える時間を頂きたい。石堂清倫についても、・・・是非買い求めてみたい」と言われていたからです。常に「正しさ」を振りかざす前衛主義と無縁の、こういう姿勢が、スターリン主義ではない日本共産党の萌芽なのだと思います。

私がこんなところで言っても仕方ないけれど、石堂清倫が訳したメドヴェージェフ(命をかけてソ連のスターリン主義と闘ったマルクス主義者です)もお薦めです。尚、有田芳生さんのサイトに石堂清倫の肖像の文章があります。これらの元共産党員の文章が生産的に現共産党の方々にも響くといいのですけれど。

閑話休題。

thessalonike2さんが「新しい政治構図のデザインとイマジネーション - 何をなすべきか」で、私の記事に言及して評価していただきありがたい限りですが、この問題に関する、私のおおまかなスタンスは、今まで読んだ限りでは、ほぼテッサロニキ2さんと同じだと思っています。

一応、私が感じたことを箇条書きにしてみると

1.新自由主義に対抗するには、結局、破綻した社会主義や、そのバックボーンにあった共産主義について、どう考えるかを問われざるをえなくなる。特に長期的にみた経済システムのあり方との関係で。

2.日本の政治状況では新自由主義や国家主義に対抗していくためには、日本共産党が社民党や、民主党左派・リベラル派や、市民運動や、既得権を失う保守層や・・・つまり広範な国民やと結びついていくことが不可欠である。先の総選挙でも「難しい条件のもとでの『善戦・健闘』」したなどと、狭い蛸壺で満足して自滅の道を歩んでもらっては困る。

3.1と2から、共産党が新自由主義と対抗できるように伸びるためには、結局は共産主義の問題や党名の問題とリンクしていくということ。

ここから別のレベルの内容になってしまいますが、社会主義・共産主義(・全体主義)の問題は、政治・経済・コミュニケーションのレベルで、未だ完全に克服されていない問題であるとの思いもあります。

議論・論争は必要なのだけれど、多くの方が言われているように、お互いに攻撃をすることが目的ではない。厳しい指摘も時には必要だし、熱くなることはあっても、理性的に討論していくということが必要ですね。

また、とりあず共産主義なんて関係ない、共産党を国民が利用できればそれでよい、という立場もわかります。もっとも肝心なのは、新自由主義による改革ファシズムをストップするということだという点は共有できます。

ブログが生産的な議論を生み出していくための模索も始まっているようです。