日本共産党・スターリン主義等めぐる断想2005年11月07日 21時56分06秒

日本共産党とスターリン主義をめぐって「改革ファシズムを止めるブロガー同盟」内外で議論が盛んです。

特に2つの魅力的なブログ「カッシーニでの昼食」「世に倦む日日」を中心になされているのですが、このような論争(まだ全然噛み合っていませんが)は、必要なことだと思います。

新自由主義・国家主義に対抗するという意味では、「社会民主主義」なり「経済民主主義」なり「セイフティ・ネット」なりと、それなりの政策的イメージを、私たちは共有できるでしょう。しかし、新自由主義改革を支持する人々に共有されているのは、大きな政府の破綻、自助努力による経済の活性化の必要性ということです。その背景には、やはり社会主義・共産主義の破綻という現実があるわけです。

また、「セイフティネット」等の政策レベルを現実に通用するように具体化するためにも、他方では、「もう一つの世界」を模索するインターナショナルな世界史的な運動に結合していくためにも、過去の左翼(マルクス主義的諸潮流)を乗り越えていくことが、不可欠だと思うからです。

私は、日本共産党中央の根本的欠陥は、スターリン主義を完全に脱却できていないことだと思っています。thessalonike2さんがいう「共産主義者たちは、共産主義者たらんとする者は、マルクスが古典で示した理想論が、何故にあのように破滅的で悲劇的な地獄を人類社会に結果させてしまったかを説明しなければならない」という点を彼らは説明できないし、しようという意欲がない点に集約されています。

そして、「共産主義」が「マルクス・レーニン主義」(「科学的社会主義」)者が他の社会主義者と自らを区別するための目印だった以上、共産主義はスターリン主義(ソ連社会主義)と直結していきます。だから一時は共産党員は自らを「スターリン主義者」と誇ったりしたわけです。

簡単に日本共産党中央のソ連等への態度を振り返ると、ラフには次のようなものでした。

70年代までは新左翼に対して「反スタとはソ連=社会主義を破壊する反革命」と悪罵を投げつけたことに見られるように、スターリン批判や収容所列島の存在が判明しても、ソ連社会主義を擁護していました。国際共産主義や国内のソ連派との関係で「ソ連大国主義」批判をしていた段階でさえ、「反スターリン主義」とは絶対言わず、「社会主義の生成期にあり、ソ連などには社会主義の優位性がある」と党員を叱咤していたのです。ところがソ連・東欧が崩壊すると、今度はあれば「社会主義でも何でもない」というわけです。

このご都合主義の軌跡は、スターリン主義が何故に発生したのかという本質的問題を常に回避する態度と軌を一にしています。そして、常に用意される答えは、彼らは「誤り」であり科学的社会主義からの「逸脱」であり、本当の共産主義とは「縁もゆかりもない」という、非弁証法的・観念的・神官的論断なのです。評論家的・非主体的な態度とも言えます。

だからといって、今の共産党が、プロレタリア独裁をなし崩し的に否定し、複数政党制を認め、市場経済を容認するなど、一貫して民主主義の徹底を通して社会主義を考えるという、ユーロコミュニズム的・構造改革派的アプローチをとってきたことは、よかったと思います。問題なのは、自分たち自身を棚上げして、ソ連その他の「誤り」に問題をすべて転嫁して、理論的対決を回避するという、その意味での非民主主義的な姿勢だと思います(民主主義とは異なる意見・思想間での徹底的な討論のうえに成立するという意味で)。

「カッーニでの朝食」や他のブログでみる共産党(支持者)の方達が、ことこの問題になると、共産党中央の文献テキストから学んだことをオウム返しにしているだけなのが、とても残念ですし、悲しいです。

党中央テキストだけから情報を得ているのでは、北朝鮮における「学習」と変わりません。少なくとも、田口冨久治・加藤哲朗氏ら、かつての共産党系知識人の業績を読んで考えるということくらいは、してみてはどうでしょうか。ブログ「世に倦む日日」の片言隻句に反応するのではなく、失礼な言い方になるかもしれませんが、もう少し社会主義の思想・運動・体制に関する常識や教養を踏まえてもらうと、同じ「共産党擁護」のスタンスであっても説得力がますと思います。

安倍晋三官房長官の危険度2005年10月31日 20時57分35秒

忙しくて新聞を読む暇がなかったのですが、日本の主権を投げ捨てる「ポチ公」ぶりをエスカレートさせる、日米安全保障協議委員会の「中間報告」なるものに、今さらながらあきれ果てました。

ペンタゴンで、さらなる軍事的貢献の忠誠を誓ってきたのが、町村信孝・大野功両大臣の「最後のご奉公」だったというわけです。

それでも町村氏は「首相以下、官房長官、外相が打ちそろって靖国参拝という事態は、なかなか容易ならざる事態になってくる恐れがある」と懸念を表明した」(時事通信)という程度の、最低限のまともな常識は有しているようですが、今度の新官房長官安倍晋三の靖国や歴史問題に対する態度は、危険きわまりないものです。国家観が希薄な小泉に比較して、安倍晋三の国家主義的なスタンスは際だっています。今後、外交・安保に限らず、全般的な案件に関して、内閣のスポークスマンとして阿倍はメディアをうまく使って、新自由主義改革と国家主義的改憲の雰囲気を巧みにつくり出していくことでしょう。

テレビのニュースで拉致被害者家族の横田早紀江さんの<私たちの運動に理解をしてくださる方が官房長官になって心強い>というようなコメントを見ました。封建的・ファシズム的全体主義の北朝鮮政権による国家テロの被害者が、日本の国家主義者・全体主義者を頼りにしなければならないという、この日本の惨憺たる現実を、改めて感じずにはいられません。

左派・リベラル派こそ、北朝鮮政権の人権侵害に苦しむ北朝鮮国民をはじめとする人々と連帯し、拉致被害者家族の先頭にたって闘うという構図こそが本来的なはずなのに、日朝の国家主義者・全体主義者の権力延命のリソースとして人権侵害行為自体が利用されるということになってしまっているのです。

竹中平蔵が総務大臣になりましたが、新自由主義政策で苦しむ人々が「小泉改革」を支持するという、経済政策をめぐる現実と同じようなことになっているわけです。

「没落する中間層」の危機感を基盤としたファシズムと同様の危険な構図を、「安倍晋三人気」に見ることができます。

「古典」で思うこと2005年10月22日 23時35分07秒

アッテンボローさんのブログの「共産党が古典を読まないわけ」で、「マルクス・エンゲルス・レーニンは日本共産党にとって都合の悪いことを言っている」ので、「宮本顕二、不破哲三といった共産党指導者が古典を読んで解釈した共産党の文献を通じて」学ぶだけということを書かれています。

それに対して、別のブログ三四郎日記では「【読書】古典学習のすすめ」 で不破哲三氏の『古典学習のすすめ』を引いて指摘されています。 「やはり多くの人が古典にじかにぶつかって、結論的な命題だけでなく、そこにいたる精神やその議論をつらぬいている方法をつかむ努力をしてほしい、と思います」と不破氏は言っているそうです。

不破氏が言いたいのは<科学的社会主義の原理を学ぶのは重要で、そのためには古典をなるべく学んでほしい。しかし、その原理を当時の社会状況に適用してマルクス・レーニンらが主張した命題を機械的に現代に適用するような、教条主義は、マルクスやレーニンの精神とは異なり、我々とも無縁である。科学的社会主義の原理を、現代日本の状況に関する正しい科学的社会主義的な研究に基づいて適用し発展させたのが、正しい日本共産党綱領路線である>ということでしょう。

ですから、当然に、暴力革命論(唯一論)や革命的祖国敗北主義やブルジョワ国家機構徹底粉砕論という(マルクスや)レーニンの主要命題を、修正する(科学的に現代に適用する!)共産党中央について、(より原理主義的な)新左翼の人々が「裏切り・改竄」と怒るのはもっともなことでしょう。

しかし、私が最も問題だと思うことは、「党」が正しい教義に基づいて正しい方針・政策を常に体現しているという、思考方式そのものです。これらの人々の「学習」とは常に正しい教義なり方針なりを学んでいくことです。そこには、マルクスがあるときアンケートでモットーとして答えた「すべてを疑え」という精神はみられません。

1970年代末に多元主義と前衛党をめぐって、不破氏と党員研究者の間で論争が行われたことありました。それをめぐって「学習会」が開かれましたが、そこでは、不破氏が書いた(といっても、5人の中央の研究員とか何とかに下書きを分担執筆させたと専従が誇らしげに言ってましたが)論文が絶対的に正しいと結論が決まっており、それに疑問をはさむことは許されないのです。個人的にも保養地近くの(今はあるかどうか知りませんが)学習会館いうところで、泊まり込んで「教育」を受けたことがありますが、今北朝鮮で行われているであろう「教育」「学習」と同質のものでした。

おそらく、共産党の中ではトロツキーもルクセンブルクもグラムシも(不破氏が構造改革派だったときは彼は読んだでしょうが)ほとんど読まれないし、蜜月時には絶賛された毛沢東も読まれることはないでしょう。そして、マルクス主義内の論争はもちろん、マルクスやレーニンが他の社会主義者と行った論争も、どちらが正しいかは「党」=神官が下した結論を受験勉強と同じく「学習」するだけでしょう。(共産党は公式にスターリンと生命を犠牲にして闘ったトロツキーを「名誉回復」させたのですかね?)

そもそも近代において、社会の問題を考えるときに、「正しい教義」(科学的社会主義なりマルクス・レーニン主義のような)が前提されて存在するという思考方式自体が、非常に危険でしょう。そういう思想をもった人々が国家なり人間集団なりの権力を握れば、必然的に民主主義が破壊されていくのは必至です。

その点で日本の新左翼諸党派も、共産党と大きく違うとは思えません。スターリン主義は、本来の科学的社会主義から逸脱したり、マルクス・レーニン主義を裏切ったから生まれたわけではないと思います。その点を曖昧にしていては、「左翼」の再生はないでしょう。

「古典」に話をもどすと、私的には、ローザの手紙や、グラムシの獄中書簡が好きです。でもマルクスやレーニンが「古典」なら、ウェーバーやケインズやハイエクの代表作だって、社会科学にとっては「古典」だろうと思っています。

いくつかのブログを読んで2005年10月09日 00時07分53秒

左派(左翼)の中で一番大きい党派、日本共産党について、このブログでこれまでも言及することがありました。その指導部=中央委員会について、何も期待していないという主旨のことをこのブログに書いたことがあります。

総選挙の「総括」をめぐって、いくつかのブログでは社共共闘(社民党と共産党との共闘)について議論されていました。新自由主義や国家主義による「改革」や改憲の動きに対抗していくためには、共産党についても、何かを言わざるをえなくなるのだと思います。私自身も庶民の一人として、そうしているつもりです。

さて、日本共産党が民主集中制等に象徴されるスターリン主義=左翼全体主義を完全に克服できないかぎりは、おそらく一貫した民主主義的政治勢力として発展はしないでしょう。

また、法の支配や立憲主義といった「自由民主主義」の理念を否定したマルクス・レーニン主義=科学的社会主義を(改竄して薄めるのではなく)理論的に克服=自己批判することが必要でしょう。さらに市場を介さない社会的労働の直接的な結合=計画経済という社会主義理念を揚棄し市場経済を原理的に是認することも求められるでしょう。

ともかく、何と言ってもスターリン主義を克服することなしに、内的には常に「正しい中央の方針」が官僚機構を経て、現場でこつこつと活動する人々へと降りてくる疎外状況を完全に払拭できないだろうし、対外的には党の「正しい」路線を「大衆団体」に押し付け、またたとえば新左翼の人々を「ニセ左翼」と侮蔑し時には暴力的に襲いかかった所業の淵源を克服できないでしょう(その被害の側にいた草加耕助さんがブログ(旗旗)に書かれています)

何だか長々しくなってしまいましたが、民主党や社民党の政治家は「うちの党もこんな問題があってダメなんだよね」と外部の人に普通に語るのに、共産党の政治家はそうでない。何だかおかしな体質だなという庶民常識が大切だと思います。くどくど言うと、それはスターリン主義=左翼全体主義の思想が根底にあって歴史的に形成された「文化」なのですが・・・まあ、それは置いておいて・・・・、共産党の中にも「それはおかしい」と外部に向かって言える人が増えてきたのでしょうか。ブログ「カッシーニでの昼食」でともえさんは、一昔前なら確実に党内で処分されたと思われるのですが、ストップ・ザ・コイズミのバナーを掲げて「左翼・右翼を超えて」とまで言われています。

ぜひ、ともえさんのような共産党員の方に、頑張っていただきたいです。(ご迷惑かもしれませんが)

共産党が内外で多様な意見を交換し議論できる組織になっていけば、その政策や理念への賛否はともかく、日本の政治にとってプラスであることは間違いありません。

現状を左派全体の弱体化の中で、組織規律が緩んでいるだけとの見方もあるかもしれませんが、70年代初頭に粛清・弾圧された「新日和見主義」派の残存した人々やその下の世代の人々が経験を生かして面従腹背で少しずつ空気を変えているのかも、というのは希望的観測でしょうか。

それから別のブログなのですが、共産党の影響力が強い大学について、労働者Lさんが書かれていることも、いろいろな所で見聞きしますが、今後の「観測結果」を期待しております。

[追記]自分のことを少し書きますと、私は、小学生高学年の頃より『赤旗』を読み始め(今はほとんど読みませんが)、18歳より10年ちょっとこの党派に関わりました。一時期までは不破哲三と上田耕一郎の著作は全部!(「禁書」になった『戦後革命論争史』を除く)読みました。『人民的議会主義』や『先進国革命の理論』を線を引いて読んだ時もあったのです。でも「活動」ではいずり回りながら読んだ、『レーニン10巻選集』とか『マルクス=エンゲルス8巻選集』(今でも売られているのでしょうか)の方が格段におもしろかったのは、当然ですが・・・(と懐古趣味に走るのもバカな元左翼の悪癖でしょうか)・・・。  というわけで、渡辺恒雄や西部邁や高野孟が、自らが関わった党派について言う程ではない?と信じたいのですが、私もバイアスがかかっているのかもしれないとは思っています。

相互に批判しつつ共同して進む2005年09月21日 22時57分26秒

 総選挙後、民主党が前原執行部となったこともあって、あちこちのブログで、社共共闘をはじめとする、反小泉=反新自由主義勢力の共同をめぐって議論が続いているようです。

 共産党について言えば、「70年代の遅くない時期に民主連合政府を」めざしていた頃から、「革新統一戦線」を綱領レベルで位置づけてきました。そして、現実に「革新自治体」が各地に実現したわけです。それは、当時の支配層にとっては脅威であったから、社共を分断する戦略がしかれ、社会党右派を先頭にそれについて乗せられ、共産党の側はそれを「右転落」と激しく批判して、共闘は消えていきます。

低成長に移行する中で「革新自治体」の政策が特に財政面問題があったし、冷戦中という国際環境のもとで、社共のスタンスは、ソ連など国家「社会主義」=全体主義に極めて甘く、政権をとれなくて国民にとってはよかった面の方が大きいかったでしょう。ただ、「革新自治体」の族生が自民党政権による歪んだ「社民主義」=弱者の一定の保護を実現させたことも事実です。

 当時の社共は、労組・平和運動・生協など、あらゆる面で、どちらがヘゲモニーを握るかという小権力闘争を繰り広げ、結局、国民大衆の運動を破壊していくという働きもしました。当時、新左翼のかなりの党派が「内ゲバ」という相互犯罪行為によって没落しましたが、社共もまたそれに近いことをやってきたというのは言い過ぎでしょうか。

同じ政党でないのだから、見解が異なることがおおければ、議論や相互批判をすることは当然です(同じ政党であっても内部で批判の自由がないのは民主主義政党として終わってますが)。しかし、より危険であり強大である共通の「敵」に対して、共同して対抗するということが、左翼はできません。

 私は、昔はそれを指導部の戦術の稚拙さとか、頭の固さによると考えていました。しかし、そうではなく、左翼の中にある「自分たちは正しい」という前衛主義、真理をつかんでいるという認識論、誤った分派・党派の害悪は絶対に許せないという攻撃性等々、構造的・思想的病理だと思っています。(その病理はもちろん、日本だけに見られるものではないのですが)

異なる意見の間で議論することは、民主主義には不可欠です。だからこそ、違う意見の人たちと、一致できる点を見いだし、それに依拠して共同をつくりだし、現実を変えていく力を創出していく・・・・、それが民主主義を本当に血肉化している政治集団ということでしょう。

 さて、現在、たしかに民主党の中には新自由主義や国家主義を信奉する人もいます。「左」の党派や人々が、それを指摘し、批判することは正しいし必要でしょう。しかし、民主党の中にも支持層にも、経済的に社民主義的で、政治的・社会的にはリベラル(反国家主義)の人々も確実に存在します。前原執行部でさえ、「弱者に対してはセイフティネットはる」と小泉自民党との違いを言っています。

 であるなら、現在の所与の条件の中で、民主党が小泉自民党の政策に引きずられたり加速さえしかねない側面を封じ込め、民主党の積極的(よりまし)な側面を拡大するような批判が求められているということでしょう。

 逆に、社民党や共産党の護憲や経済政策の観念性についても批判が「右」からも「左」からも、加えられる必要があるでしょう。そして、相互批判が国家主義・新自由主義の小泉自民党を倒していくという点での共同をつくり出していくような質がつくられていくことを望みたいし、そのような声を広げたいと願っています。

 私は、どの政党の支持者でもないので、勝手なことを言っているだけかもしれませんが・・・。

追記:「あまりにナイーブすぎる」と思われたら、それは100%甘受します。