北朝鮮の体制転換(レジーム・チェンジ)について2006年11月02日 22時58分02秒

どうやら私が考えた最悪の事態-ブッシュ政権による北朝鮮への軍事行動-のシナリオは実現せずに、中間選挙を迎えることができるようで(断定はできませんが)、とても結構なことです。
また、北朝鮮も一応6者協議に復帰するようなので、それ自体もまたよいことでしょう。

でも、ブッシュ政権にしろ、金正日政権にしろ、状況が変われば最悪のことをする可能性があります。「まさか金正日政権が戦争を始めるはずがない」とか「核兵器を持っても抑止力としてしか使わない」ということを言う人もいます。もちろん現情勢のもとではそうですが、将来、絶対にあり得ないというわけではないと思います。
全体主義日本が、理性を失い無謀な侵略戦争に突入してアジアの2000万人の生命を奪う結果を招いたこと、アメリカが必要もないのに核兵器を2発も市民の頭上に炸裂させたこと、そういう私たちの国の経験を考えれば、北朝鮮が「暴発」することが絶対ないなどとはとてもいえないでしょう。

だから、東アジアの平和にとって、基本的に必要なことは北朝鮮の体制変革=レジーム・チェンジです。「戦後レジームの転換の末に美しい国を」などと、戦後民主主義を破壊して全体主義へのレジーム・チェンジをめざすどこぞの国の首相もいますが、私たち庶民にとって必要なのは、どこの国であっても全体主義から民主主義へのレジーム・チェンジなのです。

全体主義から民主主義への体制転換の契機はいろいろあるわけですけれど、どういう形が望ましいのでしょうか。たとえば、戦後日本の出発のように自ら遂行した戦争に敗北した結果によるもの。「ベルリンの壁崩壊」の東ドイツのように市民の行動と圧力によるもの。ルーマニアのように市民の蜂起によるもの。

よく言われるように、やはり戦争や流血が少ない方がよいに決まっています。だから、「ベルリンの壁崩」壊型のように、「自由と豊かさ」を選び取る市民の主体的行動によって体制が維持できなくなる形がよいわけです。(現実の東独全体主義の崩壊の陰では西側機関の「活動」があったり情報戦が展開されたりという単純でない過程はあったわけですが、しかし全体としては西側資本主義・自由民主主義を選ぶ人々の意思があったのだと思います)

そこで、北朝鮮の人々の中に、そのようなソフトランディング的な体制転換を可能にする、選択や行動の主体となる人々が形成されているのかが問題になります。私は詳しくはわかりませんが、どうもそのような主体はまだまだ形成されていないのではないかと思います。
市民的なものであれ、労働者的なものであれ、(または軍人的なもの?)、社会を担っているという主体意識がなければならないでしょうし、自由や消費生活を欲するだけの所得や文化の水準を享受できる層が形成されている必要があるでしょう。北朝鮮の現状ではどうなのでしょうか。
歴史的には義兵闘争をはじめ抵抗の伝統があったのでしょうが、戦後レジームの中でそれは圧殺されてしまったのかもしれません。

ただ言えることは、韓国の現政権がとってきた「太陽政策」は北朝鮮の窓を開き、市場経済や自由主義の魅力を経験させるという意味では、体制転換の基盤を徐々に創り出すのに役立つだろうということです。
また、中国(自体が全体主義を完全放棄する課題に迫られていますが)の経済的成功に学ぼうという層が北朝鮮で育つことも、ソフトランディングの条件整備に結びつくでしょう。

もちろん、それは核兵器開発に対する制裁というような当面の国際社会のアクションとは、次元の異なるものとならざるをえません。北朝鮮の<暴発>を回避させつつ、制裁を加えながら、北朝鮮の下部構造に<自由>と<資本>を浸透させるという高度な方程式を解いていかなければならないということでしょうか。

この日本では民主主義から全体主義への体制転換に一歩近づく、教育基本法の改定が実現しそうな勢いで、足下に火がついているともいえますが、だからこそ、北朝鮮の人々の自由や人権のために、私たちは何ができるのか、具体的に考えたいものです。

<補>ブログ『代替案』の記事に「 北朝鮮問題のブレークスルー: 中国は鉄条網ではなく脱北者の受け入れ施設の建設を!」という具体的な提言がされていて、とても参考になりました。

雑感2006年11月06日 00時41分39秒

大正デモクラシーが「憲政の常道」なる不十分な立憲政治しか実現できずに崩れ去っていったように、今やまた戦後民主主義も不十分な形式的「自由民主主義」とともに死滅しようとしています。

祖国を形作りし文明を分有してきた近しき兄弟姉妹国民を罵るという<いじめ>心性が充満するこの国の暴力的雰囲気が、日常的テロと他律的エセ秩序を生み出し、子どもも大人も神経を病むような社会関係に追いやられています。

朝のテレビでは人を血祭りにあげることが正義であるかと錯誤した下司文化人が咆哮しています(「リベラル」!な新聞社が出資するキー局ほどひどいのは、これまた戦前の大新聞社を思い起こせます)。

もちろん、大正デモクラシーの水脈が戦後民主主義を育んだように、死滅していく戦後民主主義は、次の全体主義後に高次のデモクラシーを再建していく肥料にはなるでしょう。

「美しい国」という全体主義は、所詮、内容空無で不安に怯える弱きファシストの暴力による無秩序によってしか支えられないので、その崩壊に長時間を要することはないと思われます。浜口雄幸が刺され昭和恐慌となってから、日本軍国主義が崩壊する(たとえば軍人たちの皇軍物資盗奪も含む軍隊崩壊=実は暴力が覆い隠していた秩序の崩壊などを伴って)までたった15年です。

だからこそ、あの頃もそうだったように、全体主義者は自らの空洞を暴力でしか埋められぬ焦燥に絶えず突き動かされる、哀れむべき存在なのであり、私たちはその人々をこそ救出しなけらばならないのでしょう。

教育基本法を改正してやらせ教育を完成させよう2006年11月15日 21時30分46秒

教育基本法賛成の「やらせ発言」をさせたタウン=ミーティングの問題がクローズアップされているが、法改正の立場から言えば、まったく問題ではない。だから国会で採決の強行をしようとしている「選良」のスローガンは、この記事のタイトルのようであるのが相応しい。

民主主義社会での教育とは、最終的に自己教育である。つまり、自分自身を教育できるようになることが目指される。
たとえば、愛国心や道徳は、社会生活を営む市民の育成には大切なことであるが、その愛国心や道徳は自分自身の価値として内面化していなければ意味がない(自由民主主義社会では)。つまり、学校や周囲の先行者による援助や学習機会という環境ももちろん必要だが、最終的には愛国心や道徳は、自分自身が意識的に育てていくものである。

それに対して、個人は全体の歯車か道具でしかない全体主義社会においては、愛国心や道徳は全体権力が個人に教え込み評価し、外から強制するものである。そもそも、そこでの教育とは指導者や権力者によって注入され、洗脳される営みである。だから教育とは、<やらせ-やらされる>関係においてのみ成立するのである。

教育基本法改正という正しい結論を導くために「やらせ」をやってなぜ悪いのか。そもそも全体主義社会における教育は「やらせ」なのである。卒業式の壇上のどこに国旗を掲揚し、いつ国歌を斉唱し、どのようにな角度とタイミングで礼をし、どのような口の大きさと声量で歌うかを、上から権力者が決定して全体一丸となってやらせるのが、正しい教育なのである。だから、東京都の正しい全体主義教育では、それに疑問を呈するものは正しく処分されているではないか。

「やらせはけしからん」などというなら、教育基本法改正がめざす全体主義教育がそもそも成り立たないのだ。
1940年代の大日本帝国や第三帝国下のドイツやポルポト政権下のカンボジア、そして朝鮮労働党独裁下の北朝鮮などを見ればわかるように、全体主義の下では、教育はもちろん文化すべてが権力による「やらせ」に包摂されるのである。いや人間の精神すべてが「やらせ」に飲み込まれるのである。タウン=ミーティングの100や200の「やらせ」など、米粒の100万分の1くらいのことにすぎない。だから、粛々と改正案を採決するのが全体主義者の正しい態度である。

もちろん、私たちの文化や精神--私たちの頭の中身--のありようを強制と支配のもとにおくことが、永続可能かどうかは別問題であるが。

<追記>ともかく強制と支配はいやだという意思表明をできるだけしたい(たとえば、次のブログの呼びかけなど参照)
議員会館の廊下から玄関にファクスがあふれ出るまで  [憲法・教育基本法]
教育基本法の改悪をとめよう!11・12全国集会
教育基本法、山場、FAXとメールを

「教基法改定」与党単独採決という歴史的瞬間へ2006年11月16日 08時00分37秒

連日、多くの子どもたちが死を選んでいます。その死が私たちに届けようとしている「声」に耳を傾けなければならない、その瞬間に「教基法改正で教育改革を進めています」という偽装宣伝と、自由民主主義の浸食を狙うイデオロギー的野望のために、予定通りの行動をしていくやり口を記憶しておきましょう。

そして、その報いを必ず受けてもらいましょう。

人間の精神をコントロールしようと、人類が獲得した文明の高貴さを破壊すると、どういう代価を払わなければならないか、歴史から学ぶことができないのなら、教育してあげなければいけません。

言論と文化の力によって。

『いじめの社会理論』は2001年に出版されている2006年11月18日 22時43分47秒

 安倍晋三首相によると
海に平気で空き缶を捨てる子供に対しては、法律で禁止されていなくてもそうした行為は恥ずかしい、やってはいけないのだという道徳や規範意識を身につけさせることが必要です。
 さらに、利益にならなくても、海に捨てられた空き缶を見つければ拾ってゴミ箱に捨てる、といった公共の精神を培っていくことも必要だと思います。
 教育は学校だけで全うできるものではありません。道徳を学び、自分を律し、人を思いやる心は、家庭や地域社会の中で人と人のふれあいを通して醸成されるものです。
 こうした教育に対する基本的な考え方や価値観を、まずはみんなで共有することが大切なのではないでしょうか。毎日様々な問題が発生し、教育のあり方に対する危機感が広く共有されつつある今こそ、家庭が、地域が、学校が、そして一人一人が、自ら何ができるかを考え、自覚することが教育再生の第一歩であると考えています。
 これが新しい教育基本法の意味なのです。最近起こっている問題に対応していくために必要な理念や原則は、政府の改正案にすべて書き込んであると思っています。
安倍内閣メールマガジン(第6号 2006/11/16)[こんにちは、安倍晋三です]より
 ということだそうです。うーん、ここまで国民をバカにした文を堂々と書けることに、改めて感服しました。やはり森派に所属しコイズミ内閣の官房長官を努められた方だけのことはあります。

 現行教育基本法と比較して、何を変えるのかを積極的に説明もせず、ましてや批判される論点に応えて説得しようともしません。すごいですね、思わず、あの元画家志望の独裁者を連想してしまいました。

 ところで、安倍氏の言う「最近起こっている問題」の一つとして<いじめ>があります。メディアは連鎖反応が続いたので、とりあげるのを手控え傾向ですが、被害者たちの訴えは氷山の一角で、それもできない凄まじい現実があるのではないでしょうか。
 これまでのいじめについて根本的に分析をして、政策的提言を行った名著として、内藤朝雄『いじめの社会理論』(柏書房)があります。
 この本が出されたのは、5年も前です。安倍氏や文教族もこの本をきちんと読んで、「教育勅語の精神をモダーンに復活させよう」などという妄想に公教育を巻き込むことはやめていただきたいと思います。

例えば、授業ごとにクラスを替えたり、地域のスポーツクラブを充実させたりする。自由に友達を選べる広い交際圏でシカトをしても、シカトをした側が相手から付き合ってもらえなくなるだけで、そもそもいじめが成立しない。

 これは、内藤氏の日経新聞でのコメントだそうですが、端的に必要なことが示されています。こういう視点で行政・地域社会・教育産業など社会全体が具体的にシステムを変えていれば、今の状況はかなり緩和されたはずです。

 お笑い教育基本法改「正」?でしかない代物、やらせ教育=全体主義教育推進装置でしかない粗悪品が、安倍氏のような恥ずかしい言い訳で誤魔化されてしまうとしたら、恥ずかしい限りです。

「国会正常化」で合意だけれど・・・2006年11月21日 22時52分06秒


国会、22日正常化=教基法、実質審議入りへ-参院 与野党は21日午後、国会内で国対委員長会談を開き、22日からの国会正常化で合意した。教育基本法改正案は同日の参院特別委員会で実質審議入りする。会談では、野党の審議復帰の条件として、衆院特別委員会で安倍晋三首相も出席して早期に質疑を行うことを確認した。 
 結局、「審議拒否」とごねていたけれど、「正常」に戻るという話しになってしまいました。

もう時間との闘いです。中身が国民に広く知られていけば、もっとじっくり考えようとなります。
「教育基本法改悪反対」だけでは抽象的すぎます。
「教育を民から官への統制でいいんですか」
「教育の主人公は国なのか、子どもと親なのか」
「大学入学前半年の強制ボランティアでいいの?」
「国が全国の学校をコントロールするのか、保護者と先生が学校をつくるのか」
「愛国心を評価されてもいいのかい?」
「強制で愛国心は育つのか?」
「法律で強制して歌う国歌と自然に歌う国歌とどちらが国歌を尊重することになるのだろう」
というような問題提起が、無数にあちこちでつぶやかれる状況を作ることができれば。

「非核四原則」?堕落の極み2006年11月24日 22時00分39秒

現在、教育基本法を改定しようとしている与党の政策責任者が、またまた次のようなご発言をなさったようです。

核武装議論容認、発言再開を宣言=非核「4原則」認めぬ-自民・中川政調会長
 自民党の中川昭一政調会長は23日の岐阜市での講演で、自粛していた核保有議論を容認する発言を再開することを宣言した。
 沖縄県知事選の期間中で北朝鮮が6カ国協議への再開に同意した後の今月8日、中川氏は当面「発言しない」と表明したばかり。しかし、この日の講演で中川氏は「最近は、(核兵器を)持たず、作らず、持ち込ませずに、言わせずで非核4原則と言うようだ」と発言を批判した一部の自民党幹部らを暗に皮肉ると、「非核3原則は認めるが、4原則は認めない」「日本を侵略させないため最大限努力する」と発言自粛の方針転換を宣言した。

この人、政権党の政治家としての責任意識はゼロとしか思えません。
一時は、計算づくで米中を牽制して日本のプレゼンスを高めようとしているとか、6者協議再開に向けてブラフをうって反応を見ているのかとも思いました。
でも、そうではなくて、責任意識のない放言をしているだけなのだという気がしてきました。
なぜなら、「核兵器保有について議論してなぜ悪いのだ」と本気で言っているようだからです。
この人には、政権党の政策責任者としてこの時に核兵器保有を論じる権利を唱道することで、実は「非核」という日本の「国策」を変えるという素朴な意図があるのでしょう。しかし、自らの政治家としての責任や効果の自覚を欠いた低い次元で言い放っているとしか見えません。

中川氏のような立場の政治家が、「日米安保条約の廃棄について議論をする必要がある」とか「天皇制を廃止する可能性についても議論をするべきだ」とか言ったら、それは客観的にどういう効果をもつでしょうか。

民主主義の下では何について議論しても自由だという、一般論を主張することが、どれだけ幼稚なのか、おそらく義務教育を終えた人ならわかるはずのことでしょう。
北朝鮮の核兵器保有をどうやめさせるのか、北朝鮮の拉致という国家犯罪をどのように清算させるのかを論じるべき政権党政策責任者が、いったい何を言っているのでしょうか?

北朝鮮と同様に、NPT体制から離脱して核兵器を保有し、「ならず者国家」の列に加わることも議論しよう?それで、どうやって北朝鮮の核兵器保有宣言と対決し、北朝鮮の核開発をやめさせることができるんでしょうか?
結局、ぼっちゃん首相と同じで、政治家としての責任意識のない観念・イデオロギーで言葉遊びをしているだけにしか、見えないのです。

こういう無責任政治家が、子どもたちに向かってもっと公共心・愛国心を持てと説教・強制できる教育基本法改定を行おうというのですから、虚しくなるばかりでございます。