我が国を形成する「民草」の一員として ― 2005年11月03日 18時20分02秒
三笠宮寛仁さんが、女性天皇を「容認」(女性は容認される対象なんですゼ!)することに対して疑問を出されたそうです。
この発言は、波紋を呼ぶでしょうが、ふだんは政治的・社会的発言を抑制されている天皇や皇族が、いざというときには大きな影響力を発揮するというのが、皇室の存在理由の一つなのだから、当然のことです。
とはいえ、報道によると
国民一人一人が、我が国を形成する『民草』の一員として、二 六六五年の歴史と伝統に対しきちんと意見を持ち発言をして戴>(いただ)かなければ、いつの日か、『天皇』はいらないという>議論に迄(まで)発展するでしょう
と書かれているというのは、少々大胆ですなあ。
そりゃあ皇族さま、宮さまからすれば、私たち国民は「民草」に過ぎないのかもしれませんが、天皇の地位は主権の存する日本国民の総意に基づくわけでして、主権者たる国民を「民草」呼ばわりするのは、どうなんでありましょうか。
それから、「万世一系、一二五代の天子様の皇統が貴重な理由は、神話の時代の初代・神武天皇から連綿として一度の例外も無く、『男系』で続いて来ているという厳然たる事実」とも書かれたというのですが、1945年以前ならともかく、21世紀の現在、そんなフィクショナルなことを言われるというのはどういうことでしょうか。
ブログ「まどぎわ通信の通信」で指摘されている、「今時万世一系の「Y染色体」を信じている懲りない人たち」と言っていることが同じではないかと危惧します。
民主党前原執行部に評価できるところなし ― 2005年11月03日 18時58分01秒
民主党の前原代表は「在日米軍再編の「中間報告」について、「結論はおおむね妥当な面がある」と評価した上で、「プロセスが少し稚拙ではなかったか」と指摘した」のだそうです。http://www.asahi.com/politics/update/1103/004.html
小泉改造内閣に対しても、「期待を込めてエールを送りたい。我々も真の改革を競い合う形で、一生懸命負けないように頑張っていきたい」と言ったのを修正して、「衆院選で勝った数のおごりが表れている」と言い直したそうですが、本質は、新自由主義改革を進める小泉自民党と何ら変わりがないから、最初の「エール」になったのでしょう。
先月末に出された、民主党憲法調査会の「憲法提言」も、評価できません。
自民党の草案に比べれば、立憲主義の意義を一応はおさえているし、国民主権や基本的人権・平和主義という理念を発展させるとは言っている点ではまともです。
しかし、なぜ憲法を改定しなければならないのかという立脚点がまったく説明されていません。
「憲法論議が徐々に盛り上がってきている状況を、私たちは歓迎している」というのですが、その「憲法論議」の内容や必然性の分析・評価が曖昧だから、国家主義的改憲の危険性を明確にしたうえで、それとは異なる憲法の方向を打ち出すことができないのです。
民主党の中には、生活や労働の現場で闘っている人々がたくさんいます。また、米軍再編に真っ向から対している市民運動に関わっている人もいます。国会議員でも前原氏の姿勢に批判的な人の方がおそらく多いでしょう。
現状では、いかなる政党にも期待できませんが、内部からの変革を志向する人々を応援したいものです。
極右政治家の暴言&「野党外交の大切さ」 ― 2005年11月03日 19時27分00秒
ともえさんがブログ「カッシーニでの昼食」で「野党外交と多国間協調主義」について書かれています。 石原都知事の「国連憲章なんて、まともに信じているばかいませんよ」 というバカ発言に関わってのエントリーなのですが、そこで言われている、
各主権国家は、国際法を遵守した場合の利益と遵守しない場>合の不利益とを比較し、国際法を遵守した場合が国益に適うと>判断するからこそ国際法を遵守するのではないか。 このシステムの中でうまく立ち回るためには、多くの国から様々>な形で信頼を得ることが必要だ。
という点については、現実論として賛成です。
昔なら「科学的社会主義に相容れない」と批判されるだろう「ブルジョワ主権国家のパワーゲーム」を前提にした発想を共産党員の方が主張するのですから、多元主義が共産党にも浸透しているということでしょうか。
ともかく石原慎太郎のような極右政治家が、国連を攻撃するのは、現実に国連が歪みや不十分さを伴いながらも、集団安全保障としての機能を前進させているからでしょう。
石原氏などにとっては、近代国家を「天皇」や「伝統」などの超越的なものに結合させて信奉することで、(暴言を吐いてしまうような)自己を保てるわけです(石原氏にとってのクスリは超越性を帯びた「国家」なんですね)。武力も含めた防衛力と国家のパワーゲームで安全保障を担保しようとする理性的な保守派と彼らが違うところです。
さて、このエントリーの後半で、ともえさんが言われている、共産党の「野党外交」についての評価は首肯できる面もあります。政党に限らず、労働運動、NGO、非政治的なスポーツ・文化交流等も含めて、国境を越えて交流し意見交換を行うことはよいことですね。
しかし、共産党の中央が行ってきた「野党外交」は非常に政治主義的であることも半面の事実ではないでしょうか。
かつて「金日成同志」「チャウシェスク同志」というように、エール交換していた相手が、どんなに人権侵害と人民弾圧を行っても、平気の平左だったのはどうしてでしょうか。共産党が北朝鮮批判し始めたのは、主体思想を日本の国内に持ち込む(唯一前衛党の「科学的社会主義」を侵害する)と認定されてからです。こうしたご都合主義について、真摯な反省がされたことはあるでしょうか。共産党のいう「自主独立」が、実は自分たち科学的社会主義神官があらゆる政治運動を一国主義的にコントロールしようという、スターリン主義の現れであることは、早くから新左翼の人々が指摘していました。
ブッシュや小泉のプロパガンダに騙されない人々こそが、別のプロパガンダの軽薄さを見抜き、それらを剔りだし克服して進んでほしいと切に願う次第です。
我が国を形成する「民草」の一員として(続) ― 2005年11月06日 21時19分36秒
三笠宮さんの意見が、4日付けの新聞に出ていましたが、「我が国を形成する「民草」の一員として」で書いたことに少し付け足して感想を書きます。その時点では、記事の中で意見が引用されていただけなので。
「とどのおしゃべり」というコラムに「ひとりごと」として書かれたそうですが、皇族であればこそ、やはり意見を述べたくなるのは自然でしょう。率直に意見を書いたこと自体には好感をもちました。
しかし、「コラムの抜粋」の内容については、驚きでもあります。(以下、『東京新聞』を参照しました)
私は「「今時万世一系の「Y染色体」を信じている懲りない人たち」と言っていることが同じではないかと危惧し」(memphis)ていたのですが、「生物学的に言うと、高崎経済大学の八木秀次助教授の論文を借りれば、神武天皇のY1染色体が継続して現在の皇室全員につながっているという事であります」と、三笠宮もまったく同意見でした。
また、「歴史上現実にあった幾つかの方法論をまず取り上げてみる事」が述べられて、その中に「元皇族の皇籍復帰」など3つの方法と並んで、「昔の様に、『側室』を置くという手もあります。私は大賛成ですが、国内外共に今の世相からは少々難しいかと思います。[改行]余談ですが、明治・大正天両天皇共に、『御側室』との間のお子様です」とも書かれています。
側室制度を置く方が女系天皇「容認」より優先されるというのは、本当に率直なご意見です。
さらに、「国民一人一人が・・・きちんと意見を持ち発言をして戴>かなければ」という次には、「日本国という、『国体』の変更に向かうことになりますし」という表現がコラムには元々あったたことも発見しました。
「国体」とは、一般的な「国家体制」というよりは、「天皇制」とされる大日本帝国憲法と結びついた国家体制を指す用語との理解が普通でしょう(象徴天皇制が日本元来の天皇制との議論もありますが)。皇族がこのような意見をもっていることを、私たちが知ることができたのは、収穫です。
「『天皇』はいらないという議論に迄(まで)発展するでしょう」というのは自然なことで、やはり「共和制」・「君主制」について議論するべきでしょう。
日本共産党・スターリン主義等めぐる断想 ― 2005年11月07日 21時56分06秒
日本共産党とスターリン主義をめぐって「改革ファシズムを止めるブロガー同盟」内外で議論が盛んです。
特に2つの魅力的なブログ「カッシーニでの昼食」と「世に倦む日日」を中心になされているのですが、このような論争(まだ全然噛み合っていませんが)は、必要なことだと思います。
新自由主義・国家主義に対抗するという意味では、「社会民主主義」なり「経済民主主義」なり「セイフティ・ネット」なりと、それなりの政策的イメージを、私たちは共有できるでしょう。しかし、新自由主義改革を支持する人々に共有されているのは、大きな政府の破綻、自助努力による経済の活性化の必要性ということです。その背景には、やはり社会主義・共産主義の破綻という現実があるわけです。
また、「セイフティネット」等の政策レベルを現実に通用するように具体化するためにも、他方では、「もう一つの世界」を模索するインターナショナルな世界史的な運動に結合していくためにも、過去の左翼(マルクス主義的諸潮流)を乗り越えていくことが、不可欠だと思うからです。
私は、日本共産党中央の根本的欠陥は、スターリン主義を完全に脱却できていないことだと思っています。thessalonike2さんがいう「共産主義者たちは、共産主義者たらんとする者は、マルクスが古典で示した理想論が、何故にあのように破滅的で悲劇的な地獄を人類社会に結果させてしまったかを説明しなければならない」という点を彼らは説明できないし、しようという意欲がない点に集約されています。
そして、「共産主義」が「マルクス・レーニン主義」(「科学的社会主義」)者が他の社会主義者と自らを区別するための目印だった以上、共産主義はスターリン主義(ソ連社会主義)と直結していきます。だから一時は共産党員は自らを「スターリン主義者」と誇ったりしたわけです。
簡単に日本共産党中央のソ連等への態度を振り返ると、ラフには次のようなものでした。
70年代までは新左翼に対して「反スタとはソ連=社会主義を破壊する反革命」と悪罵を投げつけたことに見られるように、スターリン批判や収容所列島の存在が判明しても、ソ連社会主義を擁護していました。国際共産主義や国内のソ連派との関係で「ソ連大国主義」批判をしていた段階でさえ、「反スターリン主義」とは絶対言わず、「社会主義の生成期にあり、ソ連などには社会主義の優位性がある」と党員を叱咤していたのです。ところがソ連・東欧が崩壊すると、今度はあれば「社会主義でも何でもない」というわけです。
このご都合主義の軌跡は、スターリン主義が何故に発生したのかという本質的問題を常に回避する態度と軌を一にしています。そして、常に用意される答えは、彼らは「誤り」であり科学的社会主義からの「逸脱」であり、本当の共産主義とは「縁もゆかりもない」という、非弁証法的・観念的・神官的論断なのです。評論家的・非主体的な態度とも言えます。
だからといって、今の共産党が、プロレタリア独裁をなし崩し的に否定し、複数政党制を認め、市場経済を容認するなど、一貫して民主主義の徹底を通して社会主義を考えるという、ユーロコミュニズム的・構造改革派的アプローチをとってきたことは、よかったと思います。問題なのは、自分たち自身を棚上げして、ソ連その他の「誤り」に問題をすべて転嫁して、理論的対決を回避するという、その意味での非民主主義的な姿勢だと思います(民主主義とは異なる意見・思想間での徹底的な討論のうえに成立するという意味で)。
「カッーニでの朝食」や他のブログでみる共産党(支持者)の方達が、ことこの問題になると、共産党中央の文献テキストから学んだことをオウム返しにしているだけなのが、とても残念ですし、悲しいです。
党中央テキストだけから情報を得ているのでは、北朝鮮における「学習」と変わりません。少なくとも、田口冨久治・加藤哲朗氏ら、かつての共産党系知識人の業績を読んで考えるということくらいは、してみてはどうでしょうか。ブログ「世に倦む日日」の片言隻句に反応するのではなく、失礼な言い方になるかもしれませんが、もう少し社会主義の思想・運動・体制に関する常識や教養を踏まえてもらうと、同じ「共産党擁護」のスタンスであっても説得力がますと思います。
「改革促進包括法案」 ― 2005年11月08日 23時11分30秒
とりあえず「カッシーニのための二段階革命論とスターリン主義と批判の弁証法」で勝負有りと勝手に判断して、「神学論争」((笑)ってほどのものじゃなくて常識問題なんですが)はちょっと置いておきます。
自民党の中川秀直政調会長は8日、党本部で記者団に対し、 政府系金融機関の統廃合や特別会計の見直しなど、小泉純一 郎首相が掲げる政策課題について「全部を包括した推進法を 作る必要があるかもしれない」と述べ、改革の方針を盛り込ん だ法案を次期通常国会に提出する考えを示唆した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051108-00000148-mai-pol って、またとんでもないものを、自民党執行部は考えていますね。竹中か官邸に出向しているどこかかの新官僚のアイデアでしょうか?
衆院での絶対多数と、前原民主党執行部のスリスリ態度をみて、少々笠に着すぎではないんですかい?
ブログが「生産的な論争」を生産するとき ― 2005年11月09日 22時20分04秒
先日の記事で書いた、日本共産党とスターリン主義などをめぐる論争について、もう一度感想を述べておきます。
まず、僭越な言い方なのですが、今日、「カッシーニでの昼食」を読んで、ともえさんのスタンスに共感をしました。最近は、党中央テキストの受け売りオウム口調がすごく気になっていたのですが、thessalonike2さんが問われた、スターリン主義とは何かについても「少し自分で考える時間を頂きたい。石堂清倫についても、・・・是非買い求めてみたい」と言われていたからです。常に「正しさ」を振りかざす前衛主義と無縁の、こういう姿勢が、スターリン主義ではない日本共産党の萌芽なのだと思います。
私がこんなところで言っても仕方ないけれど、石堂清倫が訳したメドヴェージェフ(命をかけてソ連のスターリン主義と闘ったマルクス主義者です)もお薦めです。尚、有田芳生さんのサイトに石堂清倫の肖像の文章があります。これらの元共産党員の文章が生産的に現共産党の方々にも響くといいのですけれど。
閑話休題。
thessalonike2さんが「新しい政治構図のデザインとイマジネーション - 何をなすべきか」で、私の記事に言及して評価していただきありがたい限りですが、この問題に関する、私のおおまかなスタンスは、今まで読んだ限りでは、ほぼテッサロニキ2さんと同じだと思っています。
一応、私が感じたことを箇条書きにしてみると
1.新自由主義に対抗するには、結局、破綻した社会主義や、そのバックボーンにあった共産主義について、どう考えるかを問われざるをえなくなる。特に長期的にみた経済システムのあり方との関係で。
2.日本の政治状況では新自由主義や国家主義に対抗していくためには、日本共産党が社民党や、民主党左派・リベラル派や、市民運動や、既得権を失う保守層や・・・つまり広範な国民やと結びついていくことが不可欠である。先の総選挙でも「難しい条件のもとでの『善戦・健闘』」したなどと、狭い蛸壺で満足して自滅の道を歩んでもらっては困る。
3.1と2から、共産党が新自由主義と対抗できるように伸びるためには、結局は共産主義の問題や党名の問題とリンクしていくということ。
ここから別のレベルの内容になってしまいますが、社会主義・共産主義(・全体主義)の問題は、政治・経済・コミュニケーションのレベルで、未だ完全に克服されていない問題であるとの思いもあります。
議論・論争は必要なのだけれど、多くの方が言われているように、お互いに攻撃をすることが目的ではない。厳しい指摘も時には必要だし、熱くなることはあっても、理性的に討論していくということが必要ですね。
また、とりあず共産主義なんて関係ない、共産党を国民が利用できればそれでよい、という立場もわかります。もっとも肝心なのは、新自由主義による改革ファシズムをストップするということだという点は共有できます。
ブログが生産的な議論を生み出していくための模索も始まっているようです。
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